第84話
神奈川県の湘南海岸に浮かぶ小島、江ノ島。
夕暮れの空が茜色に染まり、海面には漁火のような街の灯りが点々と揺らめいていた。
海に赤い光の道が伸び、波音が遠くから心地よく響いてくる。
潮の香りと磯の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。
ダンジョン化以前から観光名所だった江ノ島だが、20年前の現象によってダンジョンとなり、その魅力はさらに増した。
特に夜間は海からの波や風と連動して輝くイルミネーションが幻想的で、初心者探索者だけでなく、デートスポットとしても人気を博している。
俺は志桜里の初めてのダンジョンライブを見守るため、ククルと一緒に後方で待機していた。
寄せては返す波のリズムに合わせて闇と光が交互に辺りを包み、幻想的な雰囲気を醸し出している。
入口前で星凛が機材をセッティングしていた。黒縁眼鏡を光らせながらドローンを準備する小柄な体に、大きなバッグが頼もしく見える。
「アスちゃん、志桜里ちゃん緊張しているみたい!」
ククルが俺の頭上でくるくると回りながら言った。その半透明の体が夕焼けに照らされて、虹色に輝いている。
確かに志桜里は普段の落ち着いた様子とは違い、少し顔が引きつっていた。
銀髪が夕風に揺れ、その表情からは不安と期待が交錯しているのが読み取れる。
彼女は撮影用ドローンと照明用ドローンの最終確認をしながら、何度もヘッドホンの位置を直したり、ワイヤレスマイクの音声レベルをチェックしたりしていた。
指先が微かに震え、魔銃を握る手に無意識に力が入っている。
「大丈夫か?」
俺は近づいて声をかけた。
足元の砂が僅かに音を立て、志桜里は振り返った。
彼女は銀髪を揺らし、緊張した笑顔を浮かべた。
月光のように淡く輝く髪が、江ノ島の夕闇に神秘的な美しさを放っている。
「う、うん。ちょっと緊張するけど……でも、これが夢だから……」
彼女の声は小さく震えていた。
手元を見ると、魔銃を握る指の関節が白くなるほど力が入っている。
その様子に、俺は少し心配になった。
「昨日は全然眠れなくて……朝まで配信の流れをシミュレーションしてたの」
志桜里は小さく笑った。
その笑顔は緊張の中にも、夢が叶う瞬間への期待で輝いていた。
「配信の台本は五回書き直したし、歌の練習も何度もして……でも、今はちょっと怖いけど、すごく……幸せ」
そう言いながら、彼女は胸に手を当てた。
その仕草には、この瞬間に至るまでの長い道のりが詰まっているようだった。
ふと、彼女の持つ魔銃に目がいった。
以前と変わらぬ美しい光沢を放っていたが、新たに銃身に複雑な模様が刻まれている。
「しっかし、すごい装備だな」
志桜里の手にある魔銃をもう一度確認すると、以前より明らかに複雑さが増していた。
深い青色の線が蜘蛛の巣のように広がり、その模様は魔銃の力が強化されたことを示しているようだった。
「これね、前の盗難事件のあと、お父さんとお母さんが心配して【盗難防止】のスキルを買ってくれたの」
彼女は誇らしげに魔銃を見せた。
その表面に刻まれた文様が青く輝き、購入者以外が持てばただの鉄の塊になる高級スキルだ。
「マジか……」
俺は思わず呟いた。
あのスキルは高額で、値段を聞くだけで胃が痛くなるほどだった。
「ちょっと羨ましいな」
「大丈夫、阿須那くんもがんばれば絶対買えるよ」
志桜里が優しく微笑んだ。
その表情には、真剣な励ましの色が浮かんでいた。
彼女の言葉に、少し元気づけられる。
「はっ!」
星凛が突然大声を上げた。
彼女はスマホを確認し、急いでこちらに向かってくる。
「もうカウントダウンやで! 志桜里ちゃん、準備はええな?」
関西弁が急き立てるように響く。
「うん!」
志桜里は深呼吸して覚悟を決めたように頷いた。
彼女の表情が一気に引き締まる。「Dtuber」という夢に向かって踏み出す最初の一歩だ。
「うちら、撮影チームは最初の層はついていくけど、第4層では影から見守るからな!」
星凛がメガネを光らせながら言う。
彼女の瞳には、友人の成功を願う熱意と、撮影技術を存分に生かしたいという自負が混ざっていた。
「この貴重な瞬間、絶対に記録に残すで!」
彼女の関西弁が力強く響く中、いよいよ配信の時間が迫ってきた。
俺は後方から彼女たちを見守りながら、自分と志桜里の立場の違いを考えていた。
彼女は堂々と表舞台に立ち、名前と姿を公開して活動する。
一方で俺はアストラルという仮面の陰に隠れ、誰にも知られず活動する影のヒーロー。
似て非なる二つの道だ。
海風が強くなる中、志桜里は入口へと足を踏み入れた。
◇◇◇
江ノ島ライトアップダンジョン第2層「光の参道」。
波音に呼応して揺らめく青い光の道が、江ノ島弁天橋から続いていた。
暗闇に浮かび上がる青と紫のグラデーションは、まるで遠い銀河の光を閉じ込めたよう。
波が打ち寄せるたびに光の強さが変わり、水面には幾重にも重なる光の影が映る。
まるで水中都市が浮かび上がるかのような幻想的な光景だった。
志桜里が一歩踏み出した瞬間、照明用ドローンが彼女を照らし、撮影用ドローンがその姿を捉えていく。
星凛の細かな指示でドローンが動き、まるでプロの映像作品のような仕上がりになっていた。
「こんばんは、みなさん! 初めてのダンジョンライブへようこそ!」
志桜里の声がマイクを通して響く。
その声は最初こそ震えていたが、一言二言と話すうちに力強さを取り戻していった。
画面の片隅には少ないながらもコメントが流れ始めていた。
『初見です!』『銀髪の子可愛い!』『魔銃カッコいい!』
「私、SnowBlossom、今日はみなさんと一緒に江ノ島ライトアップダンジョンを探索しながら、歌を届けたいと思います!」
SnowBlossomは白雪の雪と志桜里の桜からとったもの。
彼女は日本だけでなく世界にも発信していきたいと言っていた。
そのため海外にも通じやすい名前にしたそうだ。
俺とククルは後方で見守りながら、緊急時に備えていた。
志桜里は緊張していたが、カメラを意識してか、次第に動きが自然になっていった。
光の参道を進む彼女の姿は、銀髪が青い光に照らされて神秘的な輝きを放っていた。
「あっ、最初のモンスターよ!」
志桜里の声に視線を向けると、光の中から、ふわりと浮かぶ光海月が現れた。
青く輝くクラゲのモンスターは、見た目は美しいが弱い電撃攻撃を使う厄介な存在だ。
その身体は半透明で内側から青い光を放ち、触手からは小さな電気の火花が散っていた。
「みなさん、最初のモンスター退治、見ていってください!」
志桜里の声が弾んだ。
緊張が解けて少し余裕が出てきたようだ。
彼女は魔銃を構え、照準を合わせる。
魔銃から放たれた光弾が光海月を貫き、それは美しい白い光の粒子となって消えていった。
粒子は夜空に舞い上がり、新たな星座のように一瞬輝いて消える。
その瞬間、視聴者から称賛のコメントが流れ始めた。
「流石だな……」
俺は思わず呟いた。
その仕草と動きの完成度は、初めての配信とは思えないほど自然だった。
「……やっぱりアスちゃん、志桜里ちゃんのこと好きなんでしょ?」
ククルが頬を膨らませながら俺の耳元で言った。
彼女の半透明の顔が、意地悪そうな笑みを浮かべている。
「う、うるさい! ただ実力を認めただけだ!」
俺は慌てて否定した。
頬がカッと熱くなるのを感じる。
「へーえ、そうなんだー。でもさっきからずっと志桜里ちゃんのことばっかり見てるじゃん」
ククルが更に追い打ちをかけてくる。
その意地悪そうな笑みに、俺は思わず視線を外してしまった。
「そ、それは警備のためだっての! 何か起きても対応できるように見てるだけだ!」
思わず大声で言い返してしまったが、幸い志桜里たちには聞こえていないようだった。
彼女は既に次のエリアへと進んでいる。
俺たちも彼女を追いかけて、第3層へと足を進めた。




