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中二病の俺が影のダンジョンヒーローを目指していたら、変てこな幽霊と不思議な股旅に出会う  作者: 本尾 美春
最終章「東京タワーダンジョン  ―信じる者の最期と影のヒーローの誓い―」
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第73話

「うらぎったの……? わたし……また……」


 詩歌の声は細く、かすれていた。

 その目は涙に濡れ、血で染まった金色の髪が顔を覆う。

 彼女の命が刻一刻と失われていくのを、俺たちは為す術もなく見つめるしかなかった。


「やめろ!」


 ハヤテの叫びは、時間さえも凍りつかせるように静寂を切り裂いた。

 その声には誰も聞いたことのない激しい憤りと痛みが込められていた。


「アンナ……」


 その名を口にした瞬間、ハヤテの声から「ござんす」の口調が消え失せていた。

 それは仮面が剥がれ落ちるように、長年築き上げてきた人格の一部が崩れ去った証だった。

 三度笠の下から覗く表情は、誰も見たことのないほど生々しい感情に満ちていた。


 ハヤテの両手が震える。それは単なる恐怖ではない。

 怒りと悲しみ、そして言葉にならない罪悪感が渦巻く混沌の感情の表れだ。

 股旅姿の男の体全体が、制御できないほどに震えていた。


 まるで長い年月をかけて閉じ込めてきた記憶が、一気に溢れ出したかのような痛みが彼の表情に浮かんでいる。

 かつて共に過ごした日々、彼女の頑なな拒絶から少しずつ芽生えた信頼、そして最後に彼女を守れなかった絶望——それらが一瞬で蘇ってきた。

 その名を呼ぶ彼の声には、かつての愛情と、引き裂かれし絆の深き悲しみが混じり合っていた。




「裏切ったのは……」


 アンナと呼ばれた女性が口を開く。

 その声は氷のように冷たく、しかし透き通るようにクリアだった。

 それは詩歌を通して——いや、詩歌の魂そのものを貫く残酷さで。


「あなたのほう」


 ハヤテに語り掛けているかのように響き渡った。

 その言葉の一つ一つが、鋭い刃のように空気を裂いていく。


 その瞬間、ハヤテの顔は死者のごとく蒼白となった。

 彼の表情には読み取れないほどの複雑な感情が交錯し、三度笠の下から覗く目は、まるで幽霊を見たかのように見開かれていた。


 その言葉は、過去の忌まわしい出来事を鮮明に呼び起こした。

 「あなたのせいで」という、決して口には出さなかった非難の声が、幻聴のように彼の耳に響く。

 普段は常に冷静沈着な股旅の姿が、一瞬にして崩れ去るのを俺は目の当たりにした。

 三度笠の下から覗く顔は蒼白で、まるで何年もの時を一気に重ねたかのように老い込んでいるように見えた。


 刀を握る手に力が入らず、鞘に納められた刀はカタカタと音を立てていた。

 それはまるで、生きた亡霊を見たかのような反応だった。

 彼の背負った過ちが、今この瞬間、アンナの姿となって彼の前に立ちはだかっていた。


「嘘だ」ハヤテの声はかすれていた。

「お前は、アンナではない」


 だがその言葉に自信はなく、むしろ自分に言い聞かせるような響きがあった。

 彼の瞳の奥には、過去の記憶と現実とが、混沌の渦となって交錯していた。

 あの日から抱え続けた自らの行いへの悔恨。

 ヒーローではなく別の何かになってしまった自分への嫌悪。

 それらが全て、今この瞬間に凝縮されていた。


 アンナはハヤテの弱き言葉に応えることなく、ゆっくりと右手を前に差し出した。

 その白い手には神聖さと邪悪さが同居しているようにさえ見えた。


 すると、詩歌の服の下から銀のペンダントが、意思を持つものの如く現れ出た。

 サンクティア・アンデッドを呼び出していたものだった。

 まるで主人に従う生き物のように、ペンダントは詩歌の胸元から浮き上がり、アンナへと吸い寄せられる。


 ペンダントは黒き意思に導かれ虚空を飛ぶように、アンナの手中に収まった。

 その銀の表面は月光を受けて不気味に煌めき、半円状の形が一瞬だけ完全な円に見えた気がした。


「あ……」


「あなたにはもう必要ないわ」


 詩歌はゴホリと口から血の塊を吐き出す。

 顔色はますます青ざめ、体から力が抜けていくのが見て取れた。


 その顔には痛みと絶望が交錯していたが、一瞬だけ彼女の瞳に強い意志の光が灯った。

 これが最後の機会だとでも悟ったかのように、彼女は魂を削る痛みを堪え、己の体内に残されし全ての力を、最後の抵抗へと振り絞った。




「わたしが……選ぶのよ……」


 それは誰も予想だにしていなかった。


 詩歌は今まで弱ったのが嘘かのように身を起こし、服の中から取り出したボウガンをアンナに向けた。

 その手は血に濡れ、震えていたが、それでも狙いは確かだった。

 彼女の目に宿る最期の光が、決意と共に輝いていた。


 アンナもまた、この行動を予測し得なかったのだろう。

 彼女の完璧な表情に、一瞬だけ驚きの色が走った。


 矢はアンナの右手をかすめ、ペンダントは右手から零れ落ちて地面に落ちた。

 叩きつけられる音が、休憩層の静寂に鋭く響き渡る。


「……」

 だがアンナは全く表情を変えていない。

 まるで人形のように。

 彼女の目には憎しみも怒りも見えず、ただ冷たい計算と諦観だけが浮かんでいた。


「はあ、はあ……ざまあ……みなさい」

 詩歌は勝ち誇ったように表情を作る。

 それは裏切られたとは思えないものだった。

 最後の力を振り絞って、自分の選択を示した詩歌の顔には、かつてない誇りが輝いていた。


「……駒の分際が」

 ぼそりと小声でそれは囁かれた。

 本当に微かな声だがそれは確かに俺たちの耳に届いた。

 無感情なはずの声に、かすかに怒りの色が混じっていた。


「貴様あああああっ!!」

 俺は怒りを爆発させた。

 人間に危害を加えないと誓ったはずなのに、そんな考えは俺の頭の中から消し飛んでしまった。


 魔力は尽きていたはずなのに、【アビスブレット】を放つ。

 ——恐らく、これが本当に最後の一かけらの魔力だった。

 怒りと復讐心だけが生み出した一撃が、アンナめがけて放たれる。


 だが弾丸はアンナの体を透き通った。

 まるで彼女が此の世のものならぬ幻影であるかのように。

 弾丸は彼女の体を通り抜け、壁に穴を開けただけだった。


「なっ……」


「さようなら……。——————」


 さようならの後に何か、三文字の言葉を呟いた。

 その言葉は風のように消えてしまったが、ハヤテの耳だけには届いたのか、彼の表情が一瞬で凍りついた。

 三度笠の下から伺える彼の目には、言葉にできない恐怖と絶望が浮かんでいた。


 次の瞬間、アンナの姿は朝霧が太陽に蒸発するように、音もなく消え去った。

 残されたのは、銀のペンダントと、答えのない多くの謎だけ。

 休憩層に残る者たちの心には、底知れぬ虚無感だけが広がっていった。




「詩歌! しっかりして! 詩歌あっ!」


 俺と一緒に詩歌を支えながら、葵は絶叫に近い声をあげる。

 普段のクールな姿からは想像もつかない程の取り乱しようだった。

 彼女の藍色の髪が汗で額に張り付き、両手は詩歌の傷口を押さえて血を止めようとしていた。


「だめ! 血が止まらないよ!」


 ククルも『ヒーリング』をかける。

 だが詩歌の状況は良くなるどころか悪化している。

 半透明の幽霊少女の手から放たれる緑の光が、詩歌の体を包み込むが、その効果はあまりにも微弱だった。

 致命的な傷には、もはや魔法の治癒さえも及ばない。


 このままでは——。

 誰もが最悪の結末を確信しつつあった。


 ハヤテが詩歌の傍まで駆け寄る。

 そして、詩歌の傷を見た瞬間。


「……」


 ハヤテは、静かに頭を横に振った。


 言葉など発さずとも、その所作のみで俺たちは、残酷極まりない運命の真実を知ってしまった。

 彼の目には専門家としての冷静な判断と、人間としての深い悲しみが混ざり合っていた。




「……目が、見えない。……誰? そこに誰かいるの?」


 詩歌が両手をあげる。虚空を彷徨うように。

 その手は宙を掴むようにして、誰かを求めていた。

 金色の髪が顔を覆い、その肌は蝋のように白く、生気を失っていた。


「……ここにいる」


 俺は詩歌の両手を握る。

 決して一人ではないと示すように。温かさを伝えるために。

 まるで小さな鳥の羽のように軽い、その手にそっと力を込めた。


「……阿須那、なの?」


 今の俺はアストラルだけど、みんなには知られぬよう、顔を僅かに縦に動かして、その動きを詩歌の手から伝えた。

 かすかな頷きが、彼女の指先を通して伝わる。


 詩歌は微笑んだように見えた。

 その唇が血で染まっていても、その笑顔は純粋だった。

 それは多くの苦難を乗り越えてきた魂の、最後の輝きのようだった。


「ねえ……最後は、裏切らなかった、かな……私は役に立った、かな……」


「……うん、あなたは、最後まで裏切らなかった。私たちは……あなたのことをずっと信じてた」


 葵は声を震わせながら、涙を溢れさせながら詩歌に語り掛ける。

 彼女の青い髪が涙で濡れ、普段の冷静さは微塵も残っていなかった。

 両腕が詩歌をしっかりと抱きしめ、そこには言葉以上の想いが込められていた。


 まだ聴力は残ってるのだろう。

 その声を聴いた詩歌は良かったと言葉を零した。

 彼女の顔には穏やかな安堵の色が広がっていく。




「もっと、はやく……あなたに、会いたかった」


 最期の一言を振り絞ったように伝え息を吐き出した後、その両手は力無く地面へと落ちた。

 瞳から輝きが消え、胸の動きが永遠に止まる。


 その詩歌の顔は、アンナに裏切られて殺されたとは到底思えぬほどの、この世の全ての苦しみから解放されたかのような安らかな表情だった。

 まるで長い間探し求めていた平穏を、最後の瞬間に見つけたかのように。


 俺は憚らず、咽び泣いた。


 ヒーローになると誓いながら、目の前の一片の命すら救えなかった己の無力さを激しく悔やんだ。

 黒いマントが床に広がり、仮面の裏では涙が頬を伝っていた。


「俺も会いたかった……詩歌」


 もっと早く運命の糸が絡み合っていたなら……俺は君を救う力を得ていたのだろうか。

 君は心から信じることの幸せを知れただろうか。

 そんな後悔が俺の心を蝕み続けていった。




 みんなが詩歌の死に頭を垂れる中。


 ハヤテはアンナがいた場所まで歩き出し、そこに落ちていたペンダントを拾い上げた。

 膝をついて、まるで神聖な儀式を執り行うかのように、慎重にペンダントを手に取る。


 その指先は微かに震えていた。

 ペンダントの冷たさが、彼の掌に刻まれていく。


「アンナ……本当にあなたなのか……それとも——」


 ペンダントを握る手に力が入り、その表面に刻まれた模様が彼の手のひらに食い込んでいく。

 三度笠に隠れた彼の瞳には決意と覚悟が溢れているように見えた——。




 人の命は儚い。

 だがその輝きは、しかと俺の胸に刻まれた。

 詩歌の最後の選択——裏切られる側から、自ら信じる側へと選んだ彼女の姿は、決して忘れることはない。


 詩歌の冷たくなった手を握りながら、俺は心に誓った。

 次は、必ず救ってみせると。


 人は誰でも救われる価値があるのだと、そしてそれを証明するのが、影のヒーローの使命なのだと。

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