第65話
詩歌は限界を迎えていた。
もはや逃げる足に力が入らなくなったようで、ついには自分の足に絡まるように崩れ落ちてしまった。
金色の長い髪が床に広がり、震える手が床を掴んでいる。
彼女の姿は、かつての冷たさや高慢さを失い、ただ恐怖に怯える少女に戻っていた。
「はあっ、はあっ……」
詩歌の荒い息遣いが休憩層の静寂を破る。
その顔には血が滲み、服は裂け、全身から疲労が滲み出ていた。
彼女の目には、もはや戦う意思も抵抗する気力も残されていなかった。
サンクティア・アンデッドが不気味な静けさとともに近づいてくる。
その歩みは緩やかでありながら、確実に詩歌を追い詰めていくようだった。
半透明の皮膚の下を黒い液体が脈打ち、その一歩一歩が床を震わせる。
「人間だけでなく……あなたすら私を裏切るんだ……」
詩歌の声には、あらゆる希望が絞り出されたような虚ろさがあった。
まるでペンダントに宿る存在にさえ裏切られたことが、最後の一線を越えるような絶望を与えたかのようだ。
その時、詩歌の目に宿ったのは、憎悪か、諦観か、絶望か——言葉では表現できない複雑な感情の混合物だった。
宝石のような瞳に映る光が、最後の灯火のように揺らめいていた。
「は……ははは、その程度の価値しかないんだ、私って。使い捨ての価値しか——」
自嘲的な笑みが彼女の唇に浮かび、その声には鋭い自己否定が込められていた。
全てを見透かしたような、そして全てに絶望したような、そんな笑みだった。
サンクティア・アンデッドの手から、青白い光魔法が凝縮され始めた。
まるで天罰を下すかのように、その指先に恐ろしいまでの力が集まっていく。
床に座り込んだままの詩歌に向けて、致命的な一撃が準備されていた。
もう、詩歌には避ける気力はなかった。
彼女の体は動かず、ただ運命を受け入れるように目を閉じかけていた。
このまま直撃すれば、彼女の命は確実に失われる——そう思った瞬間。
「やめろ!」
俺は叫びながら、迷いなく詩歌の前に飛び出した。
光魔法が放たれる一瞬前、俺は両腕を広げ、身体全体で彼女を守るように立ちはだかった。
魔力を使い果たし、体力も限界の状態だったが、それでも彼女を見殺しにはできなかった。
「え!?」
詩歌は驚愕の目で見開かれる。
彼女の表情には、理解不能という色が浮かんでいた。
自分を守るために命を懸ける人間などいないと思い込んでいた彼女には、あまりにも想定外の出来事だった。
光魔法が放たれた瞬間、俺の前に透明な障壁が現れた。
そう——スキルカード『魔法反射80%』の効果だ。
光魔法は障壁を受けて反射し、サンクティア・アンデッドを直撃した。
まるで鏡に反射するかのように、光の筋が不死者へと戻っていく。
反射された光魔法の威力は相当だったのだろう。
サンクティア・アンデッドは大きく後退し、その唯一の眼から痛みの色が滲んだ。
包帯のような布が揺れ、黒い液体が床に落ちる。
スキル『魔法反射』は魔力を消費することはない。
こういう状況なほど輝くスキルだといえる。
「な……なんで助けるの?」
詩歌の声は震え、その瞳には信じられないという混乱と困惑が満ちていた。
彼女の金色の髪が、顔の半分を隠すように落ちている。
「あの……馬鹿!」
慧は額に手を当て、呆れるように声をあげる。
彼の表情には怒りと共に、どこか諦めたような色も混じっていた。
「俺は……」
言葉に詰まりながらも、俺は真っ直ぐに詩歌を見つめた。
彼女の震える瞳を見つめながら、心の内を正直に告げる。
「詩歌を悲しいままで終わらせたくなかったんだ。一度でいいから、誰かに救われる経験をしてほしかった」
「は?」
詩歌の目が見開かれ、唇が小刻みに震えた。
彼女の顔に浮かんだ表情は、これまで見たことのないような素直な驚きだった。
長い間見せることのなかった、等身大の感情が浮かび上がる。
彼女の中で何かが軋むような変化が起きているのが見て取れた。
長い間積み上げてきた「裏切られる」という固い殻に、初めて温かい光が差し込んだようだ。
凍り付いていた心に、微かな震えが走る。
「……なにいってるのあなた?」
詩歌はようやく声を絞り出した。
その声には強がりがあったが、奥に混乱の色が見えた。
「そんな理由で命を捨てるなんて、狂ってるわ」
そう言いながらも、詩歌の胸の奥深くでは、かつて諦めたはずの何かが微かに震えていた。
信じることの温かさを、彼女は思い出そうとしていた。
サンクティア・アンデッドの腐敗した体から、包帯が蛇のようにうねりながら伸び、鋭利な刃となって俺たちに襲いかかった。
空気を切り裂く音と共に、その白い布は死の影となって迫る。
「【神々の光眼】」
俺は残りわずかな魔力を振り絞り、光の魔法を発動させた。
眩い光が洞窟内を満たし、サンクティア・アンデッドの視界を奪う。
その隙に、俺は詩歌を抱えるように避けた。
彼女の体は細く軽く、まるで折れそうな小鳥のようだった。
だが目くらましは一瞬だけだった。
すぐにサンクティア・アンデッドの青い眼は正常に戻り、こちらを捉えていた。
「光に耐性あるのか……?」
聖なる力を持つ不死者だからこそ、光への耐性も備えているということなのか。
かつての聖女の名残が、そのような特性をもたらしているのかもしれない。
もうスケープゴートも使えず、他の魔法も魔力切れ。
もはや打つ手がなかった。
更に多数の触手が、俺たちを狙って伸びてきた。
縦横無尽に伸びる白い触手は、まるで審判の矢のように鋭く速い。
防ぎきれない——。受けるのを覚悟していた。
その時、青い閃光が空間を切り裂いた。
俺の前に葵が立ち、触手を全て切り捨てていた。
彼女の双剣が青く輝き、宙に舞う触手の断片が床に落ちていく。
「「えっ!?」」
俺と詩歌は同時に驚きの声を上げた。
「な、なんであなたまで……?」
詩歌が目を見開いたまま固まる。
彼女の顔には、単なる驚きを超えた、理解不能という色が浮かんでいた。
「あたし……何も聞いてない。あなたに何があったのか。どうしてこんなことしたのか。何か理由があって裏切ったのは分かるから。それを聞けずに見捨てるなんて、あたしには出来ない」
葵の声は静かだったが、その言葉には強い意志が込められていた。
彼女の藍色の髪が風もないはずの場所で揺れ、「天城」の刀身から青い光が放たれている。
「葵さん……」
詩歌の声が掠れた。
「僕も似た理由かな」
蓮が二丁拳銃でサンクティア・アンデッドの目を狙い撃つ。
大きな銃声が洞窟内に響き渡り、不死者の青い瞳に直撃する。
彼の撃ち方には無駄がなく、一発一発が確実に標的を捉えていた。
「こんな場面でさえ、君の横顔を見ていると心が躍るんだ。あはは、変かな? 死の淵でこんなこと考えるなんて。でもね、君と一緒にいた時間が全部演技だったなんて、僕の心が受け入れられないんだよ」
引き金を引く指は震えず、むしろ楽しむかのように素早く動いていた。
蓮の目には、普段の軽薄さではなく、深い決意と情熱が宿っていた。
死の危険を前にしても、彼はいつもの余裕ある笑みを失わなかった。
「蓮さん……」
詩歌の言葉は、自分に向けられた感情の純粋さに戸惑うものだった。
だがサンクティア・アンデッドの瞳から漏れていた痛みの光は、まるで時間が巻き戻るかのように消え去った。
傷ついた目は、見る間に元の青い輝きを取り戻し、その冷徹な視線が再び彼らを捉えた。
やはり不死者ゆえに、尋常ではない回復速度を持っていた。
「はあ……あいつら……」
慧は頭を垂れて呟いた。
表向きは呆れたようなため息をついたが、その胸の内では複雑な感情が渦巻いていた。
記者として、犯罪者を裁くべきだという理性。
だが同時に、自らの信念を貫く仲間たちの姿に、何かが揺さぶられる感覚。
「こんな馬鹿な連中と組んでしまったのは、俺の見る目がなかったってことか」
そう呟きながらも、慧の足は既に前へと踏み出していた。
その表情には、言葉とは裏腹に、どこか誇らしげな色さえも混じっていた。
「詩歌、お願いだ。こんな時に言うのもなんだけどさ」
俺は詩歌に向き直って言った。
彼女の目には混乱と迷いが浮かんでいる。
「一度だけでもいいから、俺たちを信じてくれないか。絶対詩歌を裏切らないと誓うから」
「……」
詩歌は答えなかった。
その瞳は複雑な感情に揺れ、長い間信じることを諦めてきた心と、目の前の奇跡のような出来事との間で引き裂かれていた。
信じれば裏切られる——その公式が、彼女の人生の真理だった。
だが今、その真理が揺らいでいる。
一筋の光が、凍てついた心の氷を溶かし始めていた。
再びサンクティア・アンデッドの攻撃が迫る。
今度は包帯が幾重にも重なり、鎧のように硬化して襲い掛かってきた。
薄い鉄板のような猛攻は葵でも防ぎきれないほどの勢いと量だった。
詩歌の瞳に一瞬、迷いが浮かんだ。
これまで誰も彼女を守ろうとしなかった。
裏切られ続けた人生の中で、見ず知らずの他人がこんな風に命を懸けてくれるなんて——。
心の奥底で何かが揺らぐのを感じた。
「スキル『ストーンウォール』!!」
詩歌の叫びと共に、幾多の岩壁が俺たちの前に立ち塞がった。
サンクティア・アンデッドの攻撃が岩に阻まれ、轟音と共に衝突する。
岩壁は傷つくが、完全に崩れることはなかった。
「どうせ、信じなくても事態は好転しないもの。だったら今回だけは信じるわよ。……どうせ裏切るのは分かってるけどね」
詩歌の言葉には強がりがあったが、その目にはかすかな光が灯っていた。
死の予感の中で、彼女は初めて信じることを選んだのだ。
「詩歌……」
裏切ると決めつけられてはいるが、今は味方になってくれている。
それだけでも有難かった。
この岩壁を盾にして攻撃すれば何とか事態は好転するはず——。
そう思っていた矢先のことだった。
サンクティア・アンデッドが手を前に組み、祈りをささげる体勢になった。
不死者で醜い存在であるはずなのに、なぜかその姿は荘厳さを感じさせた。
かつての聖女の名残だろうか、その仕草には神聖さの欠片が残っていた。
青い眼から漏れる光が岩壁を照らし、その輪郭が霧のようにぼやけ始める。
かつて聖女だった存在の名残なのか、まるで祝福と呪いが同時に働くような神秘的な現象が起きていた。
そして、岩壁は砂になるかの如く、音もなく崩れ去った。
「「えっ!?」」
俺たちは驚愕した。
詩歌の顔が青ざめ、スキルが無効化された衝撃に言葉を失っていた。
彼女の最後の望みが消え去り、絶望が再び押し寄せてくる。
サンクティア・アンデッドは再び包帯を伸ばし、鋭い刃のように変化させて攻撃してきた。
その速度は目を見張るものがあり、必殺の一撃となるはずだった。
ダメだ——。
そう思った時、慧が俺たちの前に飛び出し、包帯の攻撃を受けた。
彼の体が衝撃で大きく後ろに飛ばされ、壁に激しく叩きつけられる。
「慧さん!」
俺は悲鳴に近い声を上げた。
慧の体から血が噴き出し、壁に赤い染みを作っていた。
「理屈では助けない方がいいと分かってはいるが……心はどうにもならねえな」
慧はぼやくように呟いた。
それでも、彼は立ち上がろうとする。
脚が震え、顔からは血が流れているが、彼の目には諦めの色はなかった。
「スキル『ストーンウォール』!!」
再び詩歌はスキルを発動する。
だが、サンクティア・アンデッドはまた祈りを捧げ、岩壁は光に包まれて消えてしまう。
「どうやら無効化しちまうみたいだ……」
慧が解説するように語り掛ける。
その声には諦めはなく、ただ状況を冷静に分析する記者の鋭さが戻っていた。
「そんな……」
詩歌の表情に絶望が宿る。
形勢はどう足掻いても絶望的だった。
彼女の顔は蒼白になり、ペンダントを握る手が震えていた。
四人は背中合わせの陣形で立ち、無言のうちに最後の抵抗を決意する。
彼らの表情には恐怖よりも、諦めよりも、共に戦う仲間への信頼が宿っていた。
死の予感が迫る中、詩歌の心の中に、かつて失われていた何かが蘇りつつあった。




