第55話
【ハヤテ視点】
第8層の休憩層は、かつての世界的スポーツイベントの選手村を模していた。
色褪せた国旗が風もない空間でわずかに揺れ、蔦や苔に覆われた整然とした建物群の間を、青白い発光植物の明かりが照らしている。
空気は湿った土と古い布の匂いが混ざり合い、時折聞こえる水滴の音だけが静寂を破っていた。
時間が止まったかのような空間に、かつての祝祭の残響だけが漂っている。
そして、中央の広場にあるカフェテリアには通常なら疲れた探索者たちの姿が見られるはずだが——今日は違った。
木のテーブルと椅子は空虚に並び、温かな飲み物の香りだけが空間を満たしていた。
「ここまで人がいないのは今まであったでござんすか?」
ハヤテの声が静寂を破った。
彼の三度笠の下から覗く目には、鋭い警戒心が宿っていた。
「いや、俺もこの仕事ついて長いが、こんなのは初めてだな……」
店主は肩を落とし、拭いたグラスを棚に戻した。
その仕草には疲労と諦めが混じっていた。
あの事件の影響は想像以上に深刻のようだ。
探索者たちの間に広がる恐怖は、目に見えない瘴気のようにダンジョン全体を覆い始めている。
「それにしてもあんた、まさかまたハイドラ倒してきたのかい? 何十回目だよ」
店主は微かに自嘲気味に笑いながら、カウンターの上のグラスを磨き続けた。
その動作は習慣となった無意識の行動のようだった。
「倒してきたのは間違いないでござんすが、今回は別件で来ましたよ」
ハヤテは静かに答えた。道中合羽の裾が、わずかに湿った床に触れている。
数十回も討伐してここを訪れていたせいで、ハヤテとここの店主はすっかり顔馴染みとなってしまったらしい。
探索者にとって特別な存在となったハイドラも、ハヤテにとっては日常の風景の一部となっていた。
あの最大の難関ハイドラを除けば、ここのダンジョンはDランクとしては破格の金銭効率を誇る。
5層ボスを倒せずともここで稼ぎたい探索者は後を絶たない。
誰かが倒すのを待つか、強引に突破して逃げ切るかだ。
ネットの掲示板ではハイドラの突破方法を研究議論で盛り上がってるほどだ。
そのため、必然的にハヤテがここを訪れる頻度が多くなったのだ。
彼の姿は、この休憩層の常連となっていた。
「別件なんて珍しいな。ここで飲んでくれるなら大歓迎だが」
店主はカウンターの下から古びたボトルを取り出した。
琥珀色の液体が、ガラス越しに柔らかく光る。
「……残念ながら寛ぐ余裕はないのでござんす。その代わり協力していただければ情報料は払うでござんすよ」
ハヤテの声には、普段感じられない切迫感があった。
三度笠の下の表情は見えなかったが、その姿勢からは緊張感が伝わってくる。
「俺を情報屋にしようってか。期待するものは出ねえかもしれねえぞ」
店主は苦笑しながらも、カウンターに身を乗り出した。
彼の目には、長年この層に留まることで培った洞察力が宿っていた。
「頼れるのはあなたしかいませんよ」
ハヤテの声には、これまで聞いたことのない真剣さがあった。
彼の手が、無意識に刀の柄に触れている。
店主は黙ってウイスキーのグラスを置き、周囲に誰もいないことを確認するように視線を巡らせた。
彼の老練な目は、隅々まで空間を確認するが、二人以外の気配はなかった。
「……分かった。本題に入ってくれ」
店主の声が低くなる。
「人探しでござんす」
ハヤテは懐から一枚の写真を取り出した。
それは最新のプリンターで印刷されたものではなく、少し古びた写真だった。
微かに角が折れ、何度も触れられた痕跡がある。
「この女性を探しているのでござんす。細身の体つき、特徴的な金色の髪——」
店主はその写真を一瞥すると、すぐに記憶が蘇ったようだった。
彼の目が見開かれ、表情が変わる。
「……ああ、昨日いたな。だが今日はまだ見ていない」
店主の声には確信があった。特徴的な容姿は、彼の記憶に鮮明に残っていたようだ。
「どんな感じでしたか?」
「なんか探索というか……軽く見て回るって感じだったな。下調べみたいな感じだ。でもソロで下調べなんて初探索だったら誰でもやるから特に気に留めてなかったな」
店主は記憶を掘り起こすように、目を細めた。
「その割には、よく見てるでござんすな」
ハヤテの声には、一層の緊張感が混じってきた。
「ああそれはな、隣にすっげえ美人がいたからだよ」
その言葉を発した瞬間、時が凍り付いたように感じた。
店内の空気が重く、密度を増したように思えた。
ハヤテの呼吸が一瞬止まったのを、店主は気づかなかった。
「……は?」
ハヤテの声は、これまでに聞いたことがないほど低く、震えていた。
刀の柄を握る手に、一瞬だけ力が入った。
「あんな美人モデルでもなっかなか見ないほどでな、思わず見とれちまったよ」
店主は懐かしむように笑った。
彼の記憶の中の女性の姿は、鮮明に焼き付いているようだった。
「でも行きじゃなくて帰ろうとしてるところでさ。いつの間に下層へ行ってたんだろうって不思議ではあったんだが」
ハヤテの顔からは血の気が引き、三度笠の下でさえ見てとれるほどの蒼白さに変わっていた。
彼の手はカウンターを掴みしめるように強張っていた。
幾度となく死地を潜り抜けてきた男の顔に、初めて恐怖の色が浮かんだ。
「……一つ、聞いていいでござんすか?」
声が絞り出すように、かすれていた。
「ん? なんだい?」
店主は首を傾げ、ハヤテの異変に気づき始めた。
彼の表情に浮かぶ不安が、店主の心にも伝染し始める。
「その女性……銀色のペンダント、首から下げていませんでしたか? 半円状の銀の装飾が特徴的な……」
ハヤテの声が震えていた。
彼の指先が微かに震え、普段の落ち着きを忘れたかのような焦燥が全身から滲み出ていた。
店主は眉をひそめ、記憶を辿るように目を細める。
灯りが弱い休憩層でも、あの女性の存在感は際立っていたのだろう。
「ああ、確かに。首元で光ってたな。妙に医療器具みたいな形をしてるって思ったくらいだ」
その瞬間、ハヤテの顔から血の気が完全に引いた。
かつて自分の手で救おうとした命と、その結果生まれた悲劇。
そして今、阿須那が危険に晒されているという認識が彼の胸を締め付けた。
過去の亡霊が現在に影を落とし、再び同じ過ちを繰り返す恐怖が、ハヤテの心を凍らせた。
「東京タワーかっ!!」
ハヤテは叫ぶと同時に、情報料を投げ捨て、立ち上がった。
その動きには、これまで見せたことのない焦燥と恐怖が混じっていた。
道中合羽が風を切る音と共に、彼は出口へと走り出した。
店主の制止の声も耳に入らず、ただ一心に前へ前へと進む。
彼の心には、ただひとつの思いだけがあった——間に合ってくれと。
彼の姿が階段の暗がりに消える前、店主には見えた——三度笠の下から覗く表情に、深い悲哀と、同じ過ちを繰り返さないという鋼のような決意が交錯しているのを。




