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第52話

【ハヤテ視点】


 森と緑に囲まれた代々木国立競技場は、今やモンスターが跋扈する迷宮と化していた。


 かつて世界的なスポーツイベントが開催された巨大な屋内空間は、今や天井から垂れ下がる蔦や苔に覆われ、スタンドの座席は朽ち果て、その隙間から奇妙な青白い光を放つ植物が生い茂っている。

 主催者の歓声や選手たちの足音は遠い記憶となり、今はモンスターの唸り声と湿った風の音だけが空間を満たしていた。


 トラックフィールドは今や水たまりと泥沼が広がり、足を踏み入れれば靴まで吸い込まれるような粘性の泥が広がっている。

 空気は湿気と腐敗の匂いに満ち、かつてのスポーツの祭典の活気は、今や死の静寂に取って代わられていた。


 そして中央には七つの頭を持つ巨大な蛇「クロノス・ハイドラ」が住処とする深い池が形成されていた。

 水面からは常に霧が立ち昇り、その霧の中で七つの影が蠢いている。

 時折水面を突き破る頭は、それぞれが異なる色彩を放ち、時間そのものを歪める威圧感を放っていた。


 「クロノス・ハイドラ」は代々木ダンジョン最大の難関として恐れられている。

 探索者たちの間では「Dランク詐欺」「10層ボスよりも強い5層ボス」と評されているほどの存在。

 普通の探索者が一目見ただけで逃げ出すほどの畏怖を呼び起こす存在だった。


 その存在だけで周囲の時間が歪むほどの異形の威圧感を放ち、七つの頭からは異なる属性の魔法攻撃を一度に繰り出す圧倒的な破壊力を誇る。

 鱗には大半の物理攻撃が弾かれ、切り落とされた頭は倍になって再生するという恐るべき再生能力を持つ。


 全ての頭を同時に攻撃する戦術を取らない限り、勝利の道はない、まさに絶望の存在――。




 ――――ただし、それは並の探索者なら、の話である。




 ハヤテは息一つ乱さず、鞘に収めた刀を軽く叩きながら6層への階段へ足を進む。

 足音は驚くほど軽く、湿った地面にほとんど痕跡を残さない。

 道中合羽は湿気にも関わらず乾いたままで、その姿は霧の中の幻のように儚げでありながら、確かな存在感を放っていた。


 その後方では、七つの頭を持つ「クロノス・ハイドラ」が苦悶の咆哮を上げながら白い粒子へと変わりつつあった。

 巨大な体が砂時計の砂のように崩れ落ち、水面に消えていく。

 探索者ならば数時間かかる戦いが、わずか数秒で終わっていた。


 わずか数分前、探索者たちが「Dランク詐欺」と恐れる怪物も、ハヤテの前では一閃の価値すらない障害物でしかなかったのだ。

 七つの頭を同時に貫く剣の軌跡は、目に見えないほどの速さで描かれ、彼の立ち姿さえも揺るがすことはなかった。




「何度目だろうか」


 ハヤテは小さく呟いた。

 三度笠の陰に隠れた瞳には、計り知れない疲労と諦観が宿っていた。

 このハイドラとの対峙は今回で何十回目になるだろう。

 危険を顧みず深層へ進もうとする探索者たちが、この「クロノス・ハイドラ」の前で絶望することも、彼は数え切れないほど目撃してきた。


 その度に刀を抜き、その度に救いの手を差し伸べる。

 時には感謝され、時には警戒され。

 しかし彼はただ、目の前の命を救うためだけに剣を振るい続けてきた。

 その繰り返しの中で、彼の心はどこか機械的になり、同時に何かを求め続けているようでもあった。


 それは贖罪か、それとも――。


「いや……その考えは捨てよう」


 ハヤテは自らを戒めるように呟き、足を速めた。

 過去の亡霊に囚われている暇はない。今守るべき命がある。




 階段を下りながら、ハヤテは考える。

 湿った空気が彼の肺に入り込むたびに、思考が整理されていく。


 MPKによる殺害といっても対処されてしまったら失敗に終わる。

 それ故に、MPKはボスを含めての大多数のモンスターを押し付ける手法を使う。

 この代々木ダンジョンでそれを行うならば5層以外にないのである……。


 しかし、ハヤテが来るまで「クロノス・ハイドラ」は戦った痕跡もなく生存していた。

 その鱗はまだ輝きを失っておらず、周囲の地面にも戦闘の跡はなかった。つまり――。


「代々木ではないかもしれない、でござんすな」


 その言葉には、微かな焦りが混じっていた。

 もし代々木が狙われていないとすれば、次なる標的は東京タワーダンジョンである可能性が高まる。

 阿須那が危険に晒されるかもしれない。


 だがまだ断定は出来ない。まずは休憩層で情報を集めた後だ。

 ダンジョン内の休憩層には様々な情報が集まる。

 探索者同士の噂話、モンスターの出現パターンの変化、何気ない会話の中に重要な手がかりが隠されていることもある。


 そしてこの事を阿須那に報告しなければならない。

 そう思い、ハヤテはスマホを取り出し連絡を取ろうとした、が――。


 画面には「送信中……」の表示が出たままで一向に送信されなかった。

 メッセージは宙に浮いたまま、届かない約束のように停滞している。


「……?」


 スマホが破損したのか、と一瞬思ったが、通信不能になる特殊能力を使うモンスターに心当たりがあった。

 東京タワーダンジョンの特性――5層ボスの電磁波攻撃。


「ああ……となると、5層を突破したあたりでござんすな」


 連絡が取れなくなるというのは不安要素ではある。

 今頃阿須那も同じように通信不能状態に陥っているのだろう。

 だが東京タワーダンジョンでMPKを行うとしたら、恐らく10層の可能性が高いとハヤテは推測する。


 となると時間的猶予はまだあるはずだ。ゆっくりとしてられるわけでもないが――。


「……彼女の所在を確認する。それからでござんすな」


 その言葉に込められた意味は複雑だった。

 単なる情報収集ではなく、何かを見極めようとする強い意志が感じられた。


 そう呟きながら、ハヤテは速度を速めて歩き出した。

 彼の道中合羽が風を切る音だけを残し、彼の姿は階段の奥へと消えていった。



 ◇◇◇



【阿須那視点】


 底なし沼。


 まさにその中に沈んでいくような感覚を俺は感じている。

 喉の奥がカラカラに乾き、胸の奥から冷たい汗が滲み出している。

 手のひらには月型の爪痕が刻まれ、鼓動が速すぎて呼吸が追いつかない。


 まるで透明な蜘蛛の糸で全身を絡め取られるように、動きが緩慢になっていく。

 心臓が早鐘を打ち、その音が頭蓋骨の内側で反響しているのに、周りの会話は水中から聞こえるように鈍く、遠い。


 予感は確信へと変わりつつあった。

 こんな状況で通信が遮断されるのは偶然ではない。

 すべては計画的に進められている罠なのではないか。

 とすれば、次はどんな展開が待っているのか。


「まあ、確かに緊急連絡出来ないのは痛手だが、ほぼ避けられないからな。こういうのは想定済みだ」


 パーティー内にある不安を吹き飛ばしたいのか、明るく話しながら慧は大きめの一枚の紙を取り出しだ。

 その手つきには自信があり、度重なる探索で培われた経験が窺えた。


「次の階層は通信不能になってる奴を迷わせたい思惑が丸見えの超迷宮だ。だがこんなこともあろうかとちゃんとネットで印刷コピーした地図で6層以降のマップは対策済みだ。迷うことは絶対ないから安心しろ」


 とドヤ顔で慧が見せたのは地図だった。

 紙の上には複雑な通路と部屋が色分けされ、要所要所にメモが書き込まれている。

 彼の冷静な判断力と先見の明を示すかのような、完璧な準備だった。


「あの、私──」


 詩歌がおずおずと言いかけたとき、慧はまるで自分の思考に没頭するように話を続けた。

 彼の興奮が詩歌の声をかき消してしまう。


「迷うことは絶対ないから安心しろ」


 そう言い切る慧の横で、詩歌はカバンの中で何かを握りしめては離し、言葉を飲み込むように唇を噛んだ。

 彼女の金色の髪が顔を覆い、その表情を読み取ることができない。

 葵の賞賛の声に、彼女はさらに小さく身を縮めた。


 蓮は詩歌の様子を横目で見ながら、ホルスターに指を沿わせている。

 彼の目は何かを計算しているようで、いつもの軽薄さは姿を消していた。


 しかし、ついに決心がついたのか、詩歌は小さな声でこう付け加えた。




「──スマホ使えますけど」


 その瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 時間が止まったかのように、全ての動きが静止する。

 慧の動きが止まる。蓮の軽やかな笑みが宙で固まる。

 葵の両手が、無意識に刀の柄に伸びかける。

 そして俺の呼吸も、意識も一瞬で凍り付いた。


 詩歌の言葉は、静かな水面に投げ込まれた小石のように、パーティーの均衡を揺らがせた。

 その波紋は少しずつ広がり、やがて全員の心に確かな疑念を呼び起こす。


 続いて起きたのは、慧の大げさなずっこけ。

 ドンという鈍い音と共に、地図が床に散らばり、皮肉な笑い声が洞窟に木霊した。

 彼の演技がいつもより少し大げさに見えた。


「いやあ、良かったよ。マッピング機能使えるのが一人でもいれば、この先進んでも問題ないね」


 蓮はホルスターに手をかけながら、気さくに笑顔を見せる。

 だがその指先には微かな緊張が走り、笑顔と裏腹に、その目は冷徹に周囲を観察していた。


「本当に回避って可能だったんだ。ネットでは確かに理論上は可能だって話ではあったけど」


 葵は目を丸くして驚きを隠さない。

 彼女の言葉には純粋な驚きがあったが、同時に微かな警戒心も混じっていた。

 手は刀から離れたものの、いつでも抜けるよう心構えが整っているようだった。


「ま、それなら問題ねえな。……俺の対策が無駄になったのはちょっと癪だが」


 慧は投げやりな口調で言いながらも、地図を丁寧に折りたたみ直した。

 その動作には、彼の整然とした性格が表れていた。

 彼は詩歌を一瞥すると、微かに顔を歪めた。

 それは笑顔にも怒りにも見えない、奇妙な表情だった。


 俺も詩歌を新たな目で見つめ直す。

 電磁波の影響を受けないスマホ。

 それは何を意味するのか。特殊な機能を持ったスマホなのか、それとも彼女が何かを隠しているのか。


 疑念と緊張が入り混じった俺の表情を、詩歌は微かな笑みで返した。

 その目に映る何かが、俺の背筋に冷たいものを走らせる。

 ダンジョンの奥底に進むにつれ、真実は闇の中に消えていくようだった。


 彼女はどこまで知っているのか。

 そして——何を企んでいるのか。

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