第45話
【ハヤテ視点】
薄暗い朱色の柱が立ち並ぶ8層の広間に、ハヤテは静かに佇んでいた。
周囲には20体を超えるモンスターが徐々に円陣を組み、彼を取り囲んでいく。
一人きりになった今、彼は刀を構え直し、瞳に冷徹な決意を宿した。
「来いよ」
囁くような声で挑発すると、モンスター三体が一斉に襲い掛かってきた。
ハヤテは一瞬、その場から消えたかのように見えた。
実際には神速の動きで三体の間を掻い潜り、気配を死角に隠したのだ。
次の瞬間、彼は三体の背後に立っていた。
刀を一閃する。
目には見えない速さで三体の急所を突き、一撃で仕留めた。
モンスターたちは白い粒子を放出して消滅していく。
その姿は砂時計の砂のように、虚空へと散っていった。
残りのモンスターたちは一斉にハヤテを取り囲む円陣を敷き、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
数体の翡翠姫が遠距離から魔法を放ち、赤い炎の玉がハヤテめがけて飛んできた。
「はっ!」
鋭い気合とともに、ハヤテは刀で魔法を弾く。
刃が炎に触れる瞬間、青い光が走り、炎は消え去った。
「中途半端な火ごときに、あっしの刀は焼けん」
翡翠姫たちは更に魔法の連射を始めたが、ハヤテは全く動じなかった。
彼の動きは水のように滑らか。
無駄な動きは一切なく、必要最低限の労力で魔法を防いでいた。
「この程度で時間を稼ごうとはな……」
ハヤテは刀を水平に構え、深く息を吸い込んだ。刀身が青白く輝き始める。
「疾風斬」
大きく刀を振るうと、刃から風のような青白い波が放たれた。
まるで月光を閉じ込めたような美しい光の波が、五体のモンスターたちを一度に吹き飛ばし、壁に叩きつけた。
彼らは白い粒子となって消え去っていく。
残ったモンスターたちの動きが一瞬止まった。
恐れるように距離を取ろうとする者もいる。
しかし、どこからか操られているかのように、彼らはひるみを振り払い、一斉に襲い掛かってきた。
「無駄だ」
ハヤテの動きは加速した。
流水のように滑らかで、風のように軽やか。
彼は敵の攻撃を受け流し、間合いを一瞬で詰め、そして離れる。
刀の煌めきだけが軌跡を残し、その度にモンスターが一体、また一体と粒子となって消えていく。
「連環刀」
彼の姿が一瞬、三つに分かれたかのように見えた。
三つの幻影が三方向から襲いかかり、それぞれが異なるモンスターを切り裂く。
現実には、ハヤテは超速の動きで三ヶ所を同時に攻撃しているかのような錯覚を生み出していた。
モンスターの数が徐々に減っていく。
しかし、ハヤテの心の奥底では、既に次の段階を見据えていた。
阿須那を守ること。MPKの真相を暴くこと。
そして——。
周囲を見渡すと、床には魔力の残滓が青白く漂っていた。
不自然に削られた岩壁——9層で見たそれと酷似していた。
その魔力の印象が、どこか見覚えがある。
……MPKの犯人がハヤテの予想通りならば、その道へ引き摺り込んだ者がいるということ。
「このMPK……まさかとは思うがやったのは——」
ハヤテはぽつりと囁いた。
心の奥底に封印した記憶の欠片が、無理やり表面に浮かび上がろうとしていた。
三度笠の下で、彼の眉が深く寄る。
「いや、違う。『あの人』のわけがない。そう信じたい。だが——」
あの日の約束、あの日の惨劇。
なぜ自分があの道を捨てたのか。
すべてが繋がっていく恐怖を、ハヤテは押し殺した。
記憶の断片が脳裏を過る。
雨の夜。血塗られた剣。そして——約束。
その疑念を振り払うかのように、8層ボスである巨大な狐——黒い霧を放つ姿に向かって飛び込んだ。
通常の狐とは比べものにならない巨体が、室内の光を遮るように立ちはだかる。
「お前だけは……放っておけない」
8層ボスの瞳には理性の欠片もなく、ただ破壊への渇望だけが渦巻いていた。
その体からは黒い霧が絶えず噴出しており、触れた床は微かに変色し、腐食していく。
ハヤテは間合いを詰め、一閃。
だが狐は予想外の速さで身をかわし、牙をむき出して反撃に転じた。
「なるほど……」
通常の8層ボスとは明らかに異なる動き。
その身のこなしには、何か異質な魔力が流れているようだった。
黒い霧の奥に隠された真実に、ハヤテは気づき始めていた。
「これは……」
狐の牙がハヤテの肩を掠める。
道中合羽が裂け、その下の衣服に赤い染みが広がる。
しかし彼の表情は変わらない。
「やはり侵食の痕跡か」
ハヤテは一旦距離を取り、刀を鞘に戻した。状況を見極めるように、三度笠の陰から狐を観察する。
「そうか……通常の方法では解決しないか」
彼は静かに別の刀を抜き直す。
それは以前に中華街ダンジョンを訪れた時、阿須那から渡された刀だった。
その刃には、青白い光が宿っていた。
「浄化刀陣」
地面に刀を突き立て、ハヤテは複雑な術式を描き始める。その手は刀を通して光の線を引き、床に魔法陣のような模様を描き出していく。
「『汚染』を放つものには、『浄化』で応える」
魔法陣の中心に立つと、ハヤテの唇が微かに動いた。
まるで誰かの言葉を思い出すように。
刀が青白い光に包まれ、その輝きは次第に広がっていく。
「光よ、闇を祓え」
光は一気に広がり、狐を包み込んだ。
狐は苦しげに悲鳴を上げ、もがき始める。
黒い霧が光に触れると、まるで水に油が混ざるように反発し合い、やがて光に浄化されていく。
「これで……」
狐の体は徐々に本来の姿を取り戻し始めた。
黒い霧が薄れていき、その体はより自然な毛並みを見せ始める。
瞳の中に宿っていた異常な光も弱まっていく。
「帰れ」
ハヤテの一声で、狐は静かに白い粒子となって消滅した。
その最後の瞬間、狐の目には一瞬だけ感謝のような色が宿ったように見えた。
広間に静寂が戻る。
ハヤテは肩の傷を確認した。
黒い染みは見られず、通常の傷のようだった。安堵のため息をつく。
「これで一段落でござんすか……」
彼は探索者の死体のそばに戻った。
無念の思いで、再び調査を始める。
「あの黒い侵食……やはり同じ痕跡だ」
ハヤテの心は複雑だった。
過去の記憶と現在の状況が重なり、許せない真実が浮かび上がってくる。
「『あの人』がこんなことをするとは……」
彼の背中には、過去という名の影が常に付きまとっていた。
そして今、その影は再び動き始めていた。




