第44話 グロテスク描写注意
俺たちが7層へ入ったとき、すでに異様な雰囲気が漂っていた。
豪華絢爛な朱色の柱と黒い瓦屋根が特徴の7層は、いつもなら探索者の姿もまばらなはずだ。しかし今日は違った。
「なんか……探索者が異様に多くないか?」
五、六人ほどの小さなグループが、あちこちで固まっている。
それぞれが不安そうな表情で小声で会話している。
下層に進むほど探索者の数は減るはずなのに、この状況はあまりにも不自然だった。
ハヤテも異変を察したのか、静かな足取りで近くの探索者グループに近づいていく。
青白い顔をした若い男性に、ハヤテは穏やかな声で話しかけた。
「すみません、8層で何かありましたか?」
「え! 令和の股旅!?」
男性は目を見開いて驚いた。
その表情には一瞬の安堵が浮かんだが、すぐに不安の色が戻る。
「あ、あの、なんか階段が岩みたいなのに塞がれてて8層に行けないんです。探索者本部には連絡したんですけど――」
「!?」
ハヤテの背中が一瞬硬直するのが見えた。彼は一言も言わず、即座に駆け出した。
「アスちゃん、変身する?」
ククルの声が聞こえる。俺は瞬時に状況を判断した。
「……いや、ハヤテがいるし止めよう。それに、アストラルの出番じゃないような、そんな気がする」
これは単なる勘だが、何か今回はアストラルとしてではなく、阿須那として向き合うべき出来事のような気がしていた。
ハヤテの後を追って走り出す。前回はハヤテのスピードについていけなかったが、今回は【移動速度+100%】のスキルカードのおかげで、何とか遅れずについていける。
それでも追い抜くことはできなかった。
ハヤテの足の速さは常人の域を超えていた。
「すご……ハヤテ、めっちゃ速いね」
息を切らせながら呟くと、ククルは俺の肩にしがみつきながら頷いた。
俺は風を切るようにモンスターの間を縫って進んだ。
回廊を曲がるたびに、8層への入口が近づいていた。
ようやく8層への入口に辿り着くと、そこでは10人ほどの探索者が塞いで立ち往生していた。
皆、困った表情で壁を眺めているが、どうもできずにいる。
「そこから離れろ!」
ハヤテの声が、洞窟内に響き渡った。
低く、しかし確かな威厳を含んだその声に、探索者たちは自然と道を開けた。
ハヤテは刀を鞘から抜く。
その動作はなめらかで無駄がなく、まるで呼吸をするように自然だった。
閃光。
崩れる岩。
そして——沈黙。
刀を振るった瞬間、目にも留まらぬ速さで岩壁に無数の切れ目が走り、次の瞬間には崩れ落ちていた。
しかし、その後のハヤテの反応が異常だった。
彼は動きを止め、立ち尽くしていた。
その背中から伝わってくる緊張感は、これまで感じたことのないものだった。
「ハヤテ?」
俺は呼びかけながら近づこうとした。
その時、ハヤテはゆっくりと振り返り、低い声で言った。
「見るな……見てはいけない」
「!?」
ハヤテの声には、いつもの冷静さとは異なる緊張が走っていた。
三度笠の陰に隠れた顔は見えなかったが、彼の態度だけで最悪の状況が起きていることが伝わってきた。
「何があったんだ?」
そう言いかけた瞬間、鼻をつく甘く重たい臭いが漂ってきた。
鉄錆のような血の匂い。
そして腐敗の始まりを告げる異臭。
ハヤテはゆっくりと先へ進んだ。
その背中には、普段感じることのない重さがのしかかっていた。
「……」
俺は息を飲み、立ち止まった。
岩の隙間から見える床には、暗い水たまりが広がっている。
いや、それは水ではない。
その黒ずんだ液体の正体を考えるだけで、胃がひっくり返りそうになる。
「アスちゃん?」
ククルは事態が飲み込めていないのか、首を傾げている。
その無邪気な表情が、これから見るかもしれないものにさらされると思うと、胸が痛んだ。
足が震える。喉が乾く。
先に何があるのか分からないまま進むわけにはいかない。
でも、もし最悪の事態が起きているなら、それを知る必要がある。
「アスちゃん……」
ククルが不安そうに俺を見つめている。
半透明の瞳には、見たことのない心配の色が浮かんでいた。
「ククル……俺はどうすればいい? 多分ここから先踏み込んじゃいけないものがある。でもヒーローたるもの行かなければいけない気がするんだ」
「うーん……アスちゃんはどっちに後悔するかじゃないかな」
「後悔?」
「うん、このまま家に帰って見れば良かったと後悔するのか、先に進んで見なければ良かったと後悔するのか。どっちの道に進んでも苦難が待ち受けてるのなら、どっちの後悔を選ぶかでしかないと思うよ」
ククルの言葉は、時々こうして妙に的を射ることがある。
幽霊の姿をしているが、その智慧は古くからのもののようにも感じる。
「……」
俺は唾を飲み込み、両手で自分の頬を叩いた。
勢いよく空気を吸い込み、決断する。
「よし、俺は行くぞ。ククルは見ない方がいいからここで待っててくれ」
「アスちゃん、気をつけてね」
ククルは小さく頷いた。
その表情には、言葉以上の心配が浮かんでいた。
俺はハヤテの後を追いかけた。
一歩踏み出すごとに、足が重くなる。
心臓が早鐘を打ち、肺に空気が入らないような圧迫感がある。
岩の固い感触を足の裏で感じながら、乗り越えた先で、俺が目にしたものは——。
「うっ……!!」
吐き気が込み上げてきた。
そこにあったのは、もはや人間の形とは呼べないほど無残な三つの塊だった。
引き裂かれた衣服の間から覗くのは通常の血肉ではなく、黒く変色した組織と、床に広がるどす黒い水たまり。
その黒い液体は単なる血液ではないようで、床に触れる部分が微かに侵食され、くぼみができていた。
死体そのものからは黒い煙が微かに立ち昇り、まるで内側からゆっくりと何かに浸食されているかのようだった。
肌の表面には黒い血管のような模様が広がり、それは時間の経過とともに進行しているように見える。
喉に熱いものが込み上げてきて、思わず手で口を押さえた。
視界が歪み、冷や汗が背筋を伝い落ちる。
ハヤテは死体のそばで、静かにその体を調べていた。
血で汚さないためか、道中合羽はしまっており、紐で袖をまとめている。
特殊な素材で作られた手袋を両手にはめ、慎重に死体に触れていた。
素人とは明らかに違う、体系的で精密なその手つき。
手袋をはめた指が黒く変色した創傷を確かめる動き、異様に濁った瞳孔を確認する仕草、死後硬直の進行を確かめる角度まで——。
すべてが的確で、まるで慣れた手つきだった。
「なんでお前、平気で触れるんだよ……」
頭の中でそう思った。
三度笠の陰に隠れた顔に、一瞬だけ何かが走った。
怒り? 悲しみ? それとも——責任感?
そして俺は気づいた。
普通なら探索者が死亡すると一時間後に遺体は消滅し、免許証だけが残るはずだった。
それなのに、ここにはまだ三体の遺体が残されている。
近づいてくる気配で察したのか、ハヤテは俺に気づいた。
「警告したはずでござんすが……」
「ごめん、見なかったことを後悔するより、見る後悔を選んだ」
「……あっしが来る二十〜三十分ほど前みたいでござんすな」
ハヤテは静かに立ち上がり、特殊な手袋を慎重に外して布で包み、懐にしまった。
その所作には、慣れた動きがあった。
「じゃあ犯人近くにいるんじゃ――」
「……残念ながら、荷物がなかったことから奪った後らしい」
「これ……8層ボスにやられたのか?」
「いや――」
ハヤテの声は沈み、遠い目をした。
その表情には、隠しきれない暗い感情が浮かんでいた。
「それだけではないでござんすな」
そう言って彼は、遥か彼方を指差した。
俺が視線を向けた先には、幾多のモンスターたちが俺たちに向かって押し寄せていた。
「なっ!?」
それは偶然集まったにしてはあまりにも多すぎた。
20〜30体はいる。そしてその中に——黒い煙を放出する8層ボスもいた。
8層ボスだけが他のモンスターとは違い、体から黒い靄を立ち昇らせ、その足跡だけが床に黒い痕跡を残していた。
「片づけるでござんすよ」
ハヤテは刀を抜き構える。その姿勢に迷いはなく、勝つことを疑わない強い意志が感じられた。
「分かった」
俺もスキルブックを取り出す。
ぞっとする勢いだが、ハヤテがいればこの場は何とかなるだろう。
そして俺は、いつもの癖で——やらかした。
「ククル!」
俺はサポートをしてもらおうとククルを呼んだ。
「えっ!?」
ハヤテは予想だにしていなかったのか、驚きの声をあげる。
そして……ククルがここへ来てしまったのだ。
「はいはー……い?」
「あ……」
やってしまった。
ククルは三人の残虐な死体を見てしまう。
そして……ククルの顔が、一気に青ざめてしまった。
「あ……あ……」
がたがたと震える。
唇は真っ青になり、目はこれでもかと恐怖に見開かれる。
「いやああああああ!! 来ないでっ! 死にたくないっ!! 助けてええああああ!」
その叫び声は、今目の前で見たものへの恐怖だけではない。
まるで遠い過去の記憶が、今この瞬間によみがえったかのような。
どこかで見た光景。忘れたはずの恐怖。
幽霊となった今でさえ、消えることのない記憶の断片。
「ククルっ!?」
彼女の瞳は現実を見ていない。
何か別の光景を見ているようだった。
ククルは絶叫しながら後ろの階段を駆け上り逃げ去ってしまった。
その姿は瞬く間に暗闇に飲み込まれ、悲鳴だけが洞窟に響き渡る。
「ククル!」
「追いかけろ!」
ハヤテは俺に怒鳴った。
彼の声には今までにない緊迫感があった。
「でも――」
モンスターはもう目の前。
俺の視界の端では、ハヤテの手が刀の柄を握りしめている。
「一人でも大丈夫だ。ククルを!」
「ハヤテ、俺も――」
「行けっ!!」
ハヤテは一喝した。
その声には命令だけでなく、何か言葉にできない後悔と決意が含まれていた。
「……」
俺はそのハヤテの声に金縛りになったかのように動けなかった。
「行かなければいけないでござんすよ。ここはあっしでも解決できるが、ククルの心を救えるのは他の誰でもない、阿須那しか出来ないでござんす」
ハヤテは続けて説得するように言葉を紡ぐ。
「あっしみたいに一生を引きずる後悔だけはするな」
「ハヤテ……」
俺は、拳を握りしめる。
選択肢はもう一つしかないとやっと理解した。
「ここを離れる。……信じてるからなハヤテ!!」
ハヤテは頷いた。
俺はククルを追いかけるために7層への階段を駆け上った。
振り返ると、ハヤテがモンスターの大群と対峙する姿が見えた。
その背中はいつもより凛として見え、三度笠の影に隠れた瞳に冷徹な決意が宿っていた。
「いきますか」
彼は刀を構え直し、その身体から静かな殺気が立ち昇る。
何十体ものモンスターが押し寄せるというのに、その表情には微塵の恐れも見えなかった。




