第39話
【黒髪の男視点】
「ちっ、このままだと行き止まりにぶち当たって詰みか」
男はダンジョン奥へ中二病から距離を離そうと走り出していた。
入り口が塞がれてしまった以上は奥へ逃げるしかない。
だがそれでは捕まるまでの時間稼ぎにしかならない。
かといって真っ当から勝負しても勝ち目がないと悟った。
何故か魔銃が奴に全く効いていない。
選択肢が狭まっていく感覚が男の胸を締め付けた。
「だとすれば陰にひっそり隠れてやり過ごすしかない」
そこで通り過ぎるのも見計らって逃げる。
これしかないだろう。
他の道は塞がれてしまったのだから。
そのためには中二病と出来るだけ距離を離す。
三層へ行かなければ。
ボスにぶち当たるだろうが、所詮Fランクボスだ。
魔銃があれば倒せるはずだ。
黒髪の男はそう考えに至り、三層へ向かって逃げ続けた。
洞窟内の壁に沿って走る男の足音が、静寂を破るように響き渡る。
息は荒く、汗は額から滴り落ちていた。
彼を追うものの気配は感じないが、油断はできない。
花畑を抜け、第二層の入り口が見えてきた。
鍾乳洞のような構造が続き、足元には踏みしめると小さく光る白い花が点々と咲いている。
その淡い輝きが道しるべになり、男は更に先へと進んでいった。
Fランクボスは「フローラルラム」という草花を宿した羊モンスターである。
状態異常に強い特性はあるが、それは初心者パーティーにはあまり関係ない話で物理攻撃中心でいけば、時間はかかれど倒せる敵である。
確かに黒髪の男が持つ魔銃があれば問題なく倒せはするのだ。
だがフローラルラムは太陽が出ている間だけ出没する。
そして夜になると、その代わりに――。
ダンジョン入り口にも初心者のための警告看板が設置されているはずだった。
「昼はFランクボス『フローラルラム』が出現。夜間はDランクボス『シャドウラム』が徘徊するため、入場禁止」
だが暗さのせいか、男が急いで隠れようと焦っていたせいか、その警告は見過ごされていた。
運命の糸は……既にそこで途切れていたのかもしれない――。
男は三層へ辿り着いた。
そこは大地が花びらの絨毯で、壁から天井まで花木に覆われていた。
天井からは幾筋もの月明かりが差し込み、花々は青白く輝きを放っていた。
空気は甘い香りと湿った土の匂いが混ざり合っている。
楽園と呼んでもいい空間をあまりにも不相応な男が駆け抜けていく。
皮肉にも、この美しい場所が彼の最後の舞台になろうとしていることに気づかずに。
「花に囲まれてるなら隠れるに都合がいい。ここらへんでやり過ごすか」
男は大きな花の陰に身を潜め、息を殺した。
汗で濡れた額を拭いながら、魔銃を握る手に力を込める。
そう思った時だった。
何か荒々しい足音が近づいてくる。
床が震えるような、不吉な予感を呼び起こす重い音。
まるで地面そのものが病んでいくかのような、不自然な振動が壁から伝わってくる。
……ここまで倒してきた小型モンスターとは違う。
それらとは比べ物にならないほどの威圧感と重量感。
そして――何か腐敗したような、鉄錆と死肉が混ざったような異臭が風に乗って漂ってきた。
男の鼻腔をつく悪臭に、思わず顔をしかめる。
身を隠していた花々が、その臭いに触れたかのように萎れ始めた。
だとすれば。
「ちっ、Fランクボスか。魔銃でさっさと倒さねえと――」
そう思い、近づいてくる足音に備え、男は魔銃を構えた。
冷たい金属の感触が指先に伝わる。
男は深く息を吸い込んだ。
そして現れたのは――。
漆黒の羊毛に覆われた、男の3倍はあるだろう大型の牡羊。
いや、羊毛と呼ぶには異質すぎる。
その体毛は常に形を変え、まるで生きた闇のように蠢いていた。
その全身からは黒い霧が絶えず噴出しており、霧に触れた床は微かに変色し、花々は萎れていく。
牡羊が歩くたびに、足跡には黒い粘液が残り、その痕跡は床に焦げ付くように残っていった。
威圧感を漂わせていた。
男の足はすくみ、呼吸は浅くなる。吸い込んだ空気が肺を焼くように痛み、思考が鈍ってくる感覚。
真っ赤な目だけが薄暗い空間の中で輝いている。
瞳の奥には理性の欠片もなく、ただ破壊と侵食への渇望だけが渦巻いているようだった。
胸と額には白い紋章のような模様が、まるで強者の証のように輝いていた。
あまりの大物を漂わせるオーラに男はごくりと唾を飲み込んだ。
喉の奥に恐怖の味が広がっていく。
息をするたびに体内に黒い霧が入り込み、内側から腐食されていくような錯覚に陥る。
本来なら間違って初心者が鉢合わせた場合、必死に逃げれば逃げ切ることは可能だ。だが――。
「……へっ、どうせ最終試験のように見掛け倒しだろ!」
男は緊張から無理やり自分を鼓舞した。
心臓が耳元で鼓動を打ち鳴らす中、彼は恐怖を平静に見せかけようと強がった。
あの試験でのモンスターも最初は恐ろしく見えたが実際は大したことなかった。
これもきっと同じだ――そう自分に言い聞かせる。
「魔銃でさっさとぶっ倒す!」
最終試験での経験がかえって男の判断を見誤らせていた。
それは彼の致命的な過ちとなった。
男は魔銃を構え、牡羊に向かって発射した。
引き金を引く指に力がこもり、魔銃から赤い光弾が放たれる。
それは暗闇を切り裂くように一直線に飛んでいった。
赤い光弾は確かに牡羊に命中し、手ごたえはあった。
光弾が黒い体毛を貫いた瞬間、その箇所から黒い液体が噴き出し、床に落ちては「シュッ」という音を立てて小さな穴を開けていく。
刹那の希望が男の心を灯す。
だが牡羊の赤い目に激しい光が宿る。
傷口からは黒い粒子が霧状になって噴出し、周囲の空気を歪ませていく。
半端な攻撃は牡羊の気性を悪化させる最悪の事態になった。
男の心に再び恐怖が宿る。
荒々しく息を吐き、その鼻孔からは黒い煙が噴き出す。
牡羊が地面を蹴った場所は黒く焦げ、花々が一瞬で枯れていく。
そして男に突進してきた。
地面を震わせる牡羊の蹄の音が、男の耳に死神の足音のように響く。
逃げるべきだと脳が警告を発するが、足は恐怖で凍りついたままだった。
「き、効いてな――」
言葉を最後まで発する間もなく、牡羊の角を交えた強烈な衝撃が男を襲った。
まるで蹴鞠のように宙を舞った男の体は、壁に激しく叩きつけられた。
骨の砕ける音が空間に響き渡る。
だが痛みより恐ろしかったのは、牡羊の角に触れた箇所から体内に広がる黒い染みだった。
皮膚の下を異物が蠢くような感覚。
まるで身体の内側から何かに侵食されているような、言いようのない嫌悪感と恐怖。
「がはっ!」
男の口から赤黒い液体が飛び出した。
内臓が致命的なダメージを受けたことは明らかだった。
吐いた血液にも黒い筋が混じり、床に落ちると普通の血とは違う動きで広がっていく。
激痛が全身を突き抜け、意識が遠のいていく。
視界が点滅するように歪み、周囲の景色が波打って見える。
「ふ、ふざけんな……! これが……Fランクボスだと……いうのか」
男の声は弱弱しく、血の混じった言葉は空しく響くだけだった。
この牡羊はFランクボスではない。
黒い霧を放つこの獣の正体は、無秩序な破壊をもたらすDランクボス――シャドウラム。
だがまだ探索者になってすらいない男にその判断は出来なかった。
すべては手遅れだった。
牡羊は前足で地面を引っ掻く動作をした後、その足跡に黒い粘液が広がり、床を溶かしていく。
再び男に突撃する。
男の目には牡羊の影に死神が映っているように見えた。
その黒い体毛から溢れる粒子が周囲の空間を侵食し、まるで世界そのものを否定するかのような禍々しい存在感を放っていた。
こんなところで終わるのか――。
男の意識が薄れていく、絶望だけが残っていく。
これが彼の行いの報いなのか、それとも単なる不運なのか。
狂おしいほどの後悔が胸を締め付ける。
その時だった。
「汝の魂に死の烙印が刻まれる前に、闇の翼に乗りし者、不気味な魔術師アストラルここに降臨せり!」
漆黒のマントが闇を切り裂くように現れ、白い仮面が月光を受けて輝いた。
アストラルが両手を広げ、強烈な光を放った。
その光は闇を祓うように、シャドウラムの黒い霧を一瞬だけ押し戻した。
男の視界の端に、死の瀬戸際で見る幻か、それとも現実の救いか、アストラルの姿が映った。
人は時に、最も絶望した瞬間に救いの手が差し伸べられることがある——。




