第171話
「くそ――」
俺は膝をついた。
あれほど準備し、月華とククルの力を借り、科学博物館の特殊設備まで利用したのに――結局、ハヤテには全く通用しなかった。
観客席からは、複雑な反応が返ってくる。
「結果は予想通りだったけど――」
「でも、アストラルもなかなかやったよな」
「最後の攻撃は、確かに凄かった」
戦闘場の入口付近では、紅爪連合のメンバーたちが完全に言葉を失っていた。
「あれは――もはやAランクの力じゃねえな」
鷹村が震え声で呟く。
「Sランク――いや、それ以上かもしれねえ」
「あんな化け物と、俺たちは揉めかけてたのかよ」
雷電馨の声にも、明らかな恐怖が混じっていた。
「瞬間的に瞳の色が変わったの、見た?」
氷室鈴が青ざめた顔で仲間たちを見回す。
「あれ、絶対に人間じゃない何かが宿ってるわよ」
その時だった。
「流石に、まずいと思った」
ハヤテが刀を鞘に収めながら、意外な言葉を口にした。
「え?」
俺は顔を上げた。
「最後の攻撃――あれは、あっしも本気を出さざるを得ないほどの威力でした」
ハヤテの表情には、先ほどまでの余裕はなく、代わりに真剣な評価の色が宿っていた。
「お前さんとククル、そして月華の連携による力は――あっしの想像を上回る強さでござんす」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「それが、お前さんの――アストラルの真の強さでござんす」
ハヤテが俺に手を差し伸べた。
「負けは負けでござんすが――お前さんは確実に成長している。それを忘れてはいけない」
俺はハヤテの手を取って立ち上がった。
敗北の悔しさはあったが、
同時に――大きな手応えも感じていた。
観客席から、温かい拍手が響いてくる。
「お疲れ様!」
「いい戦いだった!」
「アストラル、格好良かったぞ!」
俺は仮面の下で、小さく微笑んだ。
まだまだ実力不足だが――確実に前進している。
そして、俺には最高の仲間たちがいる。
俺は胸を張り、堂々と宣言した。
「確かに今日は敗れ去った――だが!」
観客席の喧騒が静まり、全ての視線が俺に注がれる。
「この敗北こそが、我が魂を更なる深淵へと導く糧となろう! 次に貴様らの前に現れし時――」
俺は黒いマントを翻しながら、不敵に笑った。
「真なる闇を操りし不気味な魔術師アストラルの、真の姿を目にすることになるだろう! その時を――心して待つがいい!」
観客席から大きな歓声が上がった。
「うおおおお! アストラル最高!」
「負けても格好いいぞ!」
「次回作にご期待ください的な締めだな!」
「その意気でござんす」
ハヤテが満足そうに頷いた。
その瞳の奥に、俺への深い期待の光を見た気がした。
「アストラル! アストラル!」
「ハヤテ! ハヤテ!」
観客席から響く熱狂的な歓声に包まれながら、俺とハヤテは模擬戦闘場から退場した。
敗北は敗北だったが、胸の奥に不思議な充実感が宿っていた。
確かにハヤテには完敗したが、同時に自分の成長も実感できた戦いだった。
「お疲れ様でした、阿須那さん?」
月華が嬉しそうに近づいてきて、小声で労いの言葉をかけてくれた。
その瞳には、先ほどまでの緊張感に代わって、温かい労いの光が宿っている。
「ああ、ありがとう月華。君の応援があったからこそ、最後まで戦えた」
俺も小声で――仮面は付けたままだが、普段の阿須那の口調で答えた。
周囲は歓声と喧騒で満ちているが、こうして近くで小声で話せば会話の内容は聞こえないだろう。
「でも、本当に素晴らしい戦いでした? 特に最後の連携攻撃は――」
月華が興奮気味に戦闘の感想を語り始めたが、途中で表情が少し翳った。
「実は――」
彼女は俺の隣で宙に浮かんでいるククルを見つめながら、遠慮がちに口を開いた。
「阿須那さんとククルさんの関係性が、とても羨ましいんです?」
「え?」
俺は思わず振り返った。
月華の瞳には、純粋な憧れの色が宿っている。
「戦闘中の二人の連携――まるで心が一つになっているようで……私も、ご主人とそういう関係性になりたいと思っているんです?」
月華の視線がハヤテに向けられる。
その表情には、深い愛情と同時に、まだ届かない距離への切ない想いが込められていた。
「月華――」
ハヤテが何か言いかけた時だった。
「かっこいいわ〜♪」
突然、戦闘場の入口から妖艶な女性の声が響いた。振り返ると――
「うわっ!」
俺は思わず後ずさりした。
そこに立っていたのは、紅爪連合の副リーダー・蛇島麗華だった。
中性的で美しい顔立ちに、華やかな着物風の戦闘服。
長い黒髪が艶やかに輝き、その容姿はハヤテとは違う方向性の絶世の美貌を誇っている。だが――
俺は慌てて中二病口調に切り替えた。
紅爪連合は俺の正体を知らないのだ。
「本当にお美しい顔立ちね〜♪ でも漢らしさではやっぱりリーダーだけど――」
「おい! 蛇島! 何やってんだ!」
雷電馨の荒々しい声が響くと同時に、蛇島麗華の腕が複数の手によって掴まれた。
「ちょっと〜、まだ話し終わってないのに〜」
「もういい! 帰るぞ!」
氷室鈴と他のメンバーが蛇島を両脇から抱えて、強引に階段の方へ引きずって行く。
その光景は、まるでコントのようだった。
「あら〜、また今度ゆっくりお話ししましょうね〜♪」
蛇島が手をひらひらと振りながら去っていく中、俺は呆然と立ち尽くしていた。
「あの人たち――まさか俺たちの戦いを見ていたのか?」
戦闘場から出る時には気づかなかったが、紅爪連合は最初から最後まで観戦していたらしい。
そして今になってわざわざ声をかけに来るなんて――
「ハヤテ」
そんな俺の混乱をよそに、リーダーの鷹村剛が静かにハヤテに向き直った。
赤銅色のリーゼントと顔の大きな傷跡、黒い革ジャンとサングラス――その威圧感は相変わらず凄まじかった。
「一つ聞かせてもらいたい」
鷹村の声には、先ほどまでの戦闘への興味以上の、何か深い意図が感じられた。
「何でござんすか?」
ハヤテがいつもの飄々とした口調で応える。
だが、その奥に微かな警戒心が宿っているのを俺は見逃さなかった。
「なぜ、それほどの力を持ちながらAランクに留まっている?」
鷹村の問いかけに、観客席にいた一般の探索者たちもざわめき始めた。
確かに、今日のハヤテの戦いぶりを見れば、誰もがその疑問を抱くだろう。
「Sランクどころか、それ以上の実力があるように見えたが――」
「目立ちたくないからでござんす」
ハヤテの答えは、あまりにも簡潔だった。
だが、その短い言葉の中には、何か深い事情があることを感じ取れた。
「なるほど――」
鷹村が納得したような表情を見せる。
そして俺の方を向いて、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そんな化け物じみた力を持ってりゃ、そりゃあ当然だろうな」
その癪に障る言い方に、俺は思わず拳を握りしめた。
確かにハヤテの実力は圧倒的だったが、それを「化け物じみた」と表現されると、なんだか馬鹿にされているような気がしてならない。
「では、失礼する」
鷹村が踵を返そうとした時――
「あ〜ら♪」
再び蛇島麗華の声が響いた。
見ると、彼女が仲間たちの手を振り払って戻ってきている。
「せっかくの美青年なのに、挨拶もなしに帰るなんて失礼よね〜♪」
そう言いながら、蛇島が俺に向かって投げキッスを送った。
「うわっ!」
俺の背中に悪寒が走る。
あの美貌は確かに認めるが、なんだか得体の知れない危険性を感じずにはいられなかった。
「蛇島! いい加減にしろ!」
今度こそ雷電馨が彼女を抱え上げて、強制的に連れて行く。
紅爪連合のメンバーたちは、そんな騒がしい副リーダーを引きずりながら、科学博物館から去っていった。
「なんだったんだ、あの人たち――」
俺が呟くと、ハヤテが苦笑いを浮かべた。
「昔から変わらないでござんすな、彼らは」
◇◇◇
紅爪連合が去っていくと、今度は一般の観客たちが再び押し寄せてきた。
「アストラル、やっぱり格好良かった!」
「サインください!」
「次の戦いはいつですか!?」
「くっ……」
俺は後退しながらハヤテと月華の方を見た。
二人も困惑した表情で、人波から逃れようとしている。
「ククル、頼む!」
「任せて!」
ククルが【ヘビーミスト】を発動させると、廊下に濃い霧が立ち込めた。
「うわっ、何だこれ!」
「前が見えない!」
「どっちに行った!?」
方向感覚を失った追っかけたちの困惑する声が遠ざかっていく。
俺たちは霧に紛れて急ぎ足で科学博物館の奥へと移動し、人気のない非常階段の踊り場にたどり着いた。
「ふう……やっと落ち着けた」
完全に人がいなくなったのを確認してから、俺は急いでアストラルの衣装を脱いだ。
黒いマントと三角帽子、白い仮面をバッグに詰め込み、普段の高校生の服装に戻る。
「これで人心地ついたな」
◇◇◇
戦闘場での騒動が落ち着いたところで、先日からずっと気になっていたことをハヤテに相談してみることにした。
「ハヤテ、実は聞いてもらいたいことがあるんだ」
「何でござんすか?」
ハヤテが興味深そうに俺を見つめる。
俺は志桜里のライブ配信で起きた奇妙な現象について話し始めた。
「志桜里がDtuberとして活動してるんだけど、浅草ダンジョンでライブをした時に、モンスターが踊ってたんだ」
「ほう――」
ハヤテの表情に、僅かな変化が生まれた。
驚きというよりも、何かを確認するような眼差しだった。
「もしかして、知ってたのか?」
「まあ、風の噂で聞いたことがあるでござんす」
ハヤテの答えは曖昧だったが、明らかに何かを知っている様子だった。
「それで、その件について何か相談でも?」
「実は明日、志桜里が浅草ダンジョンの最深部まで行って、ライブ配信をすることになったんだ。第20層の『黄金の猫神殿』まで」
その瞬間――ハヤテの表情が一変した。
いつもの飄々とした態度が消え、代わりに深刻な心配の色が浮かんでいる。
まるで俺が重大な危険を告白したかのような反応だった。
「最深部まで――でござんすか?」
「ああ。でも問題があってさ……」
俺は頭を抱えながら続けた。
「志桜里はまだFランクだから、単独でEランク以上のダンジョンに入ることは禁止されてる。誰かに同行してもらわないといけないんだけど――」
「阿須那が一緒に行けば良いのでは?」
「それができれば一番いいんだけどな」
俺は苦笑いを浮かべた。
「俺が普通に同行したら、志桜里との繋がりが知られちゃう。そうなると『モンスター操作疑惑』に俺まで巻き込まれて、志桜里にもっと変な噂が立つかもしれない」
「なるほど……」
「だから、俺がアストラルとして護衛に行こうと思うんだ。でも――」
俺は少し躊躇いながら続けた。
「志桜里は俺がアストラルだって知らない。いきなり『アストラルが護衛します』って言っても不自然だろ?」
「確かに」
ハヤテが頷いた。
「それで、お願いがあるんだ」
俺は意を決してハヤテに頼み込んだ。
「お前から志桜里に『アストラルを紹介する』って形で依頼を取り次いでもらえないか? お前とアストラルが一緒にいるところは、みんな見てるだろ? だから、お前経由なら自然だと思うんだ」
「……分かったでござんす。志桜里には、あっしから『知り合いの優秀な探索者を紹介する』という形で話を通しておきましょう」
「本当か!? 助かるよ、ハヤテ!」
「ただし――」
ハヤテが非常に小さな声で何かを呟いた。あまりにも小さすぎて、俺には聞き取れない。
「え? 今なんて?」
「いえ、なんでもありません」
ハヤテは慌てたように首を振った。
だが、その表情には明らかに何かを隠している様子が見て取れる。
「とにかく、形式上は『令和の股旅からの正式な紹介』ということにしておくでござんす。報酬は――そうでござんすな、形だけでも設定しておいた方が良いでしょうか」
「ああ、そうだな。でも、あんまり高額だと志桜里が気にしちゃうから……」
「では、交通費程度ということで。阿須那なら、きっと大丈夫でしょう」
ハヤテがそう言って俺の肩を叩いた。
「ありがとう、ハヤテ。本当に助かるよ」
俺は心から感謝の言葉を述べた。
これで志桜里を守る方法が見つかった。
だが――
ハヤテの最後に呟いた言葉が、どうしても気になって仕方なかった。
あれは一体何だったのだろうか?
そして、なぜ『黄金の猫神殿』という名前を聞いた時、彼はあんなにも深刻な表情を浮かべたのだろうか?
俺の胸に、不安な予感が宿り始めていた。
「魔女――」
去り際のハヤテが、また小さく呟いた言葉が、俺の耳に微かに届いた。
魔女?
一体、浅草ダンジョンの最深部には何があるというのだろうか――




