第149話
【第一幕:冥界からの使者】
夕日が嵐山の竹林に最後の光を投げかけた瞬間、世界が変わった。
空気が重くなる。
風が止まる。
鳥たちの鳴き声が消える。
そして——空が、黒く染まった。
「来るぞ……」
俺は胸の奥で響く不穏な鼓動を感じ取った。
第四波の禍折鶴たちがククルの活躍で弱体化した今、戦場には静寂が戻っている。
だが、この静けさは嵐の前の静寂だった。
俺の本能が、全身の感覚が、それを警告していた。
慧の対策本部からの解説音声が、戦場の通信システムから響く。
「皆さん、京都上空に異常な雲の動きを確認しています。これは……これまでに記録のない現象です」
その声には、戦場を見守る記者としての冷静さと、事態の深刻さを理解した抑えきれない緊張が混じっていた。
俺は空を見上げた。
そこに現れたのは、絶望そのものだった。
「サムハイン・ソーラーウィスプ……」
俺は呟いた。
ついに最終ボスの登場だ。
——最終波:サムハイン・ソーラーウィスプ——
物理攻撃も魔法も簡単には通用しないといわれる絶望的な敵。
だが、俺たちには諦めるという選択肢はない——
そのはずだった。
「え、ちょっと待て」
俺は急に思い出した。
「レオンのカオスセオリーが対策って言ってなかったか?」
「……公然わいせつ罪で連行されたでござんすな」
ハヤテが苦々しい表情で呟いた。
「現行犯逮捕の場合48時間以内の処理が必要ですから間に合いませんわね」
エリカの冷静な分析が、俺たちの希望を完全に打ち砕いた。
「どうするんだよこれ!!」
俺の叫び声が京都の空に響く。
最大の切り札が使えない状況で、Sランクモンスターと戦わなければならない。
「仕方ない、今ある戦力でやるしかない」
林勇太郎が覚悟を決めた表情で指示を出す。
「全員、攻撃開始!」
俺たちは一斉にサムハイン・ソーラーウィスプへ向かった。
「この闇より来たりて光を操る者よ! 汝、冥界の使者に対し我が最大の力をもって立ち向かわん! 【アビス・セイクリッド・ジャッジメント】!」
光と闇のエネルギーが融合した俺の最強魔法が、巨大なカボチャの頭部に向かって螺旋を描きながら突進する。
これまでで最も美しく、最も強力な魔法だった。
同時に、ククルの赤い人魂が宙を舞い、ハヤテが桜属性の剣技を繰り出す。
「【桜鳥散華】!」
刀身から桜の花びらのような光の刃が無数に舞い散る。
一瞬で相手を包み込む桜吹雪のような攻撃が、美しさの中に神鳥の威厳を秘めてサムハイン・ソーラーウィスプを包み込んだ。
エリカの台座付きグラナイトエクスカリバーが振り下ろされ、林勇太郎の軍神の刀法が空間を切り裂く。
これだけの攻撃を受けて無事な敵など——
だが、現実は残酷だった。
すべての攻撃が、まるで存在しないかのように巨大なモンスターをすり抜けていく。
「嘘だろ……」
俺の声が掠れた。
これほどまでに完全な無効化を見たのは初めてだった。
そして、サムハイン・ソーラーウィスプが動き始めた。
巨大な目と口から放たれるのは、冥火——生命力そのものを燃やし尽くす特殊な炎だ。
「散開!」
俺たちは四散したが、実体化していないモンスターの動きを止めることはできない。
物理的な接触ができない。
魔法も効かない。
万策尽きた——
俺たちは全員、同じ絶望を感じていた。
その時だった。
「待たせたな!」
息を切らしながら現れたのは、レオン・クロスだった。
いつものスーツ姿だが、髪は乱れ、若干息が上がっている。
「レオン! どうして——」
「緊急事態につき特別措置で釈放された」
レオンは少し苦い表情を見せた。
「エリカが探索者協会と警察に掛け合ってくれたおかげでな。『Sランクモンスター相手に戦力を留置場に放置するのは国家的損失』だそうだ」
彼は右手の小さな装置を高く掲げた。
「まだ諦めるのは早い。俺には最後の切り札がある」
その琥珀色の瞳に、確固たる決意が宿っていた。
だが同時に、プライドと焦りも混じっている。
「カオスセオリーに賭ける」
レオンが装置を起動させると、周囲の空間が微妙に歪み始めた。
重力の向きが変わり、空気の密度が変化する。
物理法則そのものを一時的に操作する、彼の最大の切り札。
俺たちは固唾を飲んでその結果を見守った。
頼む……効いてくれ……
俺の心の中の祈りは——
裏切られた。
サムハイン・ソーラーウィスプは微動だにしなかった。
「効かない……」
レオンの声が震えた。それは恐怖ではなく、深い挫折感に満ちた震えだった。
「重慶の悪夢で俺が何度もカオスセオリーを発動させた。あの時の戦闘データを分析され、対策を取られたのだろう」
空中から聞こえてきたのは、嘲笑だった。
「ククク……実に予想通りの反応だ、レオン・クロス。君の技術は確かに優秀だが、プライドが最大の弱点だな」
これで本当に万策尽きた。物理攻撃も、魔法も、そして物理法則の操作さえも通用しない。
俺たちは全員、同じ絶望を感じていた。
これまでの戦いで蓄積した疲労、消耗したMP、そして何より心に積もった重圧。
Dランクの俺がSランクモンスターと戦うという無謀さが、今更ながら身に染みてきた。
【第二幕:小さな希望の光】
万策尽きたと思った瞬間、俺は無意識に胸元のメダルを握りしめていた。
昭和記念公園スタンピードで得た小さな円形のメダル。
ケルトの幽霊王を倒した時の記念品。
普段は気にも留めていなかったこの小さな金属片が、なぜか今は温かく感じられた。
その瞬間だった。
サムハイン・ソーラーウィスプが突然、畏怖するように動きを止めた。
オレンジと青の炎が一瞬だけ揺らぎ、巨大な目が俺の胸元を見つめている。
まるで何かを認識したかのような——
「何だ……?」
だが、動きを止めただけで攻撃は止まらない。
巨大な口から冥火が放たれ、俺に向かって真っ直ぐ飛んできた。
生命力を直接燃やす炎。これを受ければ俺は——
その時——
【魔法反射80%】が発動した。
俺の体表面に光の膜が形成され、冥火がそのまま跳ね返される。
反射された炎は弧を描いてサムハイン・ソーラーウィスプに命中し——
「ギャアアアア!」
初めて、モンスターが苦痛の声を上げた。
琥珀色の体表面に焼け焦げたような痕が残っている。
確実にダメージを与えたのだ。
「効いた……!?」
俺は驚愕した。
魔法反射で跳ね返した攻撃は、サムハイン・ソーラーウィスプの無効化能力を貫いてダメージを与えたのだ。
「自分でも人を救える」
その実感が胸の奥で温かく広がった。
Dランクである俺が、Sランクモンスターに打撃を与えることができた。
これまでハヤテやエリカに守られてばかりだった俺が、ついに仲間を支えることができたのだ。
だが、同時に現実も突きつけられた。
「まだまだ力が足りない」
ダメージは与えたが、倒すには程遠い。
しかも、サムハイン・ソーラーウィスプは学習能力を持っているようで、もう同じような魔法を撃とうとしなくなってしまった。
「因果の逆転……自分の力で自分を傷つける現象ですわ」
エリカが呟く。
「理にかなっておりますわ。季節霊系は『収穫』を司りますの。ですが『収穫したもの』が逆に『植え付けた者』を傷つけるという逆転現象なら——」
「【スケープゴート】を使えば、まだ魔法を撃つ可能性はある」
俺は自分に標的変更のスキルをかけることを考えた。
だが、それには時間がかかる上に、俺の体力が先に尽きる危険性もあった。
周囲を見回すと、レオンは拳を握りしめて悔しそうに地面を見つめ、エリカは疲労で肩を落とし、林勇太郎でさえ無力感に打ちひしがれている。
だが——ハヤテだけが違った。
他の誰もが絶望に沈む中で、彼だけは静かに立っている。
三度笠の下の表情は見えないが、その佇まいが……いつもとまるで違っていた。
まるで、何か重大な決断を下したような——
俺は彼を見つめた。
ハヤテの手が、無意識に胸の辺りに触れているのが見えた。
そして、その瞳が一瞬だけ——
金色に光ったような気がした。
「ハヤテ?」
だが、彼は俺の呼びかけに答えない。
ただ静かに刀の柄を握りしめている。
その時、ハヤテが口を開いた。
「阿須那」
その声は、普段と何も変わらない股旅口調だった。
だが、何かが——何かが決定的に違っていた。
まるで遺言を告げるような、深い覚悟が込められているような——
「もう一度だけ反射を狙って欲しい」