第139話
11月29日。
Bランクスタンピード発生まで、あと1日。
京都の朝は濃い霧に覆われていた。
ホテルの窓から見下ろす街並みは、まるで水墨画のように幽玄な美しさを湛えている。
でも、その美しさとは裏腹に、心は鉛のように重く沈んでいた。
「アスちゃん、おはよー」
天井近くでふわりと浮かぶククルが、いつものように無邪気な笑顔で挨拶した。
よく見ると、彼女の半透明の体にも普段とは違う緊張感が滲んでいる。
「おはよう、ククル。よく眠れたか?」
「うーん、まあまあかな。でもね、アスちゃん」
ククルが宙でくるりと一回転してから、得意げな表情を浮かべた。
「実は昨夜、すっごくいいことを思いついたの!」
「いいこと?」
洗面台で顔を洗いながら振り返った。
冷たい水が頬を伝って、僅かに意識がはっきりする。
「スタンピードで死体を見ちゃった時の対策!」
その言葉に、手が止まった。
水滴が床に落ちる音だけが響く。
ククルの死体に対するトラウマは深刻な問題だった。
中華街ダンジョンでの出来事を思い出すと、彼女がどれほど苦しんでいるかがよく分かる。
「どんな対策だ?」
「ひ・み・つ♪」
ククルはいたずらっぽく舌を出した。
「えー、教えてくれよ」
「だーめ。当日のお楽しみなの。でも、すっごく画期的なアイデアだから、アスちゃんもきっと驚くよ!」
彼女の自信に満ちた表情を見て、少し安心した。
きっと何か良い方法を思いついたのだろう。
ククルの発想力は時々驚くほど柔軟だから、案外シンプルで効果的な解決策なのかもしれない。
「分かった。でも、無理は絶対にするなよ」
「はーい♪」
ククルが元気よく返事をした時、スマホが振動した。
着信画面を確認すると、「橘慧」の文字が表示されている。
「もしもし、慧さん?」
「おう、阿須那。朝から悪いな」
受話器の向こうから聞こえる慧の声は、いつものように落ち着いていた。
でも、その奥にある緊張感は隠しきれていない。
まるで弦が限界まで張り詰めているような、そんな印象だった。
「いえ、全然大丈夫です。そちらはどうですか?」
「俺も京都に着いた。昨夜遅くな」
慧の声に疲労感が滲んでいる。
「今は市内の避難所を回って、状況を確認してるところだ」
「避難所ですか?」
「ああ。記者として、避難民の生の声を聞いておきたくてな。それに——」
慧の声が一瞬途切れた。
何かを躊躇っているような沈黙。
「実際に現場を見ておかないと、明日のスタンピードで何が起きるか予想できない」
「明日って……まさか慧さんも現場に?」
思わず声を上げた。
慧の戦闘能力は確かに高いが、Cランクの探索者がBランクスタンピードに関わるのは危険すぎる。
「まあ、最前線で戦うつもりはないよ」
慧の声に苦笑いが混じった。
「俺の役割は、逃げ遅れた民間人の誘導と保護。それと——」
彼は一度言葉を切った。
深く息を吸う音が聞こえる。
「正しい情報の発信だ」
「正しい情報?」
「アンナの奴らが流すであろう嘘やデマに対抗するためにな」
慧の声が急に熱を帯びた。
「現場から生の情報を発信し続ける。それが俺にできる戦い方だ」
「でも、危険すぎませんか? 最前線じゃなくても、スタンピードの現場にいれば——」
「死ぬ可能性があるか?」
慧が言葉を先回りして言った。
電話越しでも、彼の苦い笑いが伝わってくる。
「ああ、もちろんそのリスクは理解してる」
受話器を強く握りしめた。
なぜ彼は、そこまでして危険を冒そうとするのか。
「慧さん、一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「戦場ジャーナリストとして紛争地域を取材して、重慶のA級スタンピードでも命の危険にさらされて——」
一度息を吸った。
「それでもなお、今回のB級スタンピードで命の危険を冒してまで現場を取材する理由って何ですか?」
電話の向こうで、慧が長い間沈黙していた。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
煙草に火をつける音がかすかに響いた。
やがて、彼は重い口調で答えた。
「……いい質問だな」
慧の声には、これまで聞いたことがないような深い想いが込められていた。
「正直言うと、俺も時々分からなくなる」
彼が煙草の煙を吐く音が聞こえた。
「なぜこんなに危険な目に遭ってまで、真実を追いかけるのか」
「慧さん……」
「でもな、阿須那」
慧の声が震えた。
ほんの僅かだが、確実に震えていた。
「俺が紛争地域で見たのは——」
彼は言葉を切った。
まるで記憶の奥から何かを引きずり出すような、苦しそうな沈黙。
「情報操作で絶望に追い込まれる人々の姿だった」
「情報操作……」
「そうだ。嘘の情報が流されることで、助かるはずの命が失われる」
慧の声が次第に力強くなっていく。
だが、その奥にある痛みは隠しきれていない。
「家族が引き裂かれる。希望が踏みにじられる」
受話器を握る手に汗が滲んだ。
慧の言葉の重さが、電話越しでも痛いほど伝わってくる。
「重慶のスタンピードでも同じだった」
彼の声が一段と低くなった。
「パニックに陥った民衆が、デマに踊らされて間違った避難行動を取った。その結果——」
「結果?」
「多くの命が失われた。俺の目の前で」
慧の声が掠れた。
「東京タワーのMPK事件だってそうだ。もし俺が詩歌の真実を伝えることができていれば——」
「慧さん……」
「彼女の心の叫びを世間に届けることができていれば、もしかしたら違った結末があったかもしれない」
慧の声に、深い後悔が滲んでいた。煙草を強く吸い込む音が響く。
「だから俺は思うんだ」
彼の声が再び力強くなった。
「真実を伝えることは、武器や魔法と同じくらい人を救う力がある。いや——」
慧が一瞬言葉を切った。
「時にはそれ以上の力があるかもしれない」
慧の言葉に圧倒されていた。
記者として、戦場ジャーナリストとしての使命感。
それは俺のヒーローへの憧れと、どこか似ている部分があった。
「記者として、戦場ジャーナリストとして——俺が培ってきた技術と経験を、今度こそ人々を救うために使いたい」
「それが慧さんの戦い方なんですね」
「そうだ。危険だと分かっていても現場に向かう」
慧の声に、揺るぎない決意が込められていた。
「誰かが真実を記録し、伝えなければならない。それが俺の使命だ」
慧の確固たる信念に、胸が熱くなった。
「でも」
慧の声のトーンが少し軽くなった。
「もちろん、無謀に突っ込むつもりはないぞ。HP自動回復のスキルカードもあるし、逃げ足には自信がある」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「慧さんらしいですね」
「まあな。死んでしまっては真実も伝えられないからな」
しばらくの沈黙の後、慧が再び口を開いた。
「阿須那、君も気をつけろよ。君たちの戦いは俺なんかより何倍も危険だ」
「はい。でも、俺たちにも守らなければならないものがあります」
「そうだな」
慧の声に、理解と信頼が込められていた。
「お互い、生きて帰ろう」
「はい」
電話を切った後、深く息を吸った。
慧の言葉は、心の奥深くに響いていた。
真実を伝えることの大切さ、そして俺たち一人一人に与えられた使命の重さ。
「アスちゃん、なんか難しい顔してるね」
ククルが心配そうに俺を覗き込んだ。
「ちょっと考え事をしてただけだよ」
時計を確認した。
午後1時30分。約30分後には、林勇太郎との面会が予定されている。
「そろそろ出発しなきゃな」
二条城へ向かう準備をしながら、明日への覚悟を新たにしていた。