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中二病の俺が影のダンジョンヒーローを目指していたら、変てこな幽霊と不思議な股旅に出会う  作者: 本尾 美春
第七章「嵐山竹林ダンジョン —血盟と絶望の夜明け、そして希望の光—」
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第138話

 11月28日。

 Bランクスタンピード発生まで、あと2日。


 京都市内の緊急避難所は、まるで嵐の前の海のようだった。


 かつては子供たちの笑い声が響いていたであろう小学校の体育館が、今や数百人の避難民で溢れかえっている。

 毛布が敷き詰められた床、教室という教室に身を寄せ合う家族連れ。

 廊下には不安そうな大人たちの会話と子供の泣き声が絶え間なく響いていた。


 普段なら放課後の部活動で汗を流す生徒たちの姿があるべき場所に、今はただ重苦しい空気だけが漂っている。




 体育館の隅で、志桜里と星凛が機材をセッティングする様子を見守りながら、この異常事態の重さを改めて実感していた。


「志桜里ちゃん、音響のチェックするで〜」


 星凛が青縁メガネを上げながら、持参したノートパソコンと小型スピーカーを繋いでいる。

 いつもの関西弁は明るいが、その動作には普段にない慎重さが滲んでいた。


「ありがとう、星凛ちゃん」


 志桜里は深緑のコートを脱ぎ、薄いピンク色のワンピースに着替えている。

 銀色の髪が体育館の蛍光灯に映えて、まるで天使のような美しさを放っていた。

 だが、その美しい顔には明らかな緊張の色が浮かんでいる。


 手には例の魔銃「スターバースト」がしっかりと握られているが、その指先が微かに震えているのを見逃さなかった。



 避難所の管理人——50代ほどの疲れ切った男性職員が、困惑した表情で俺たちの元にやってきた。


「本当に大丈夫ですか? 皆さん、かなりピリピリしてまして……正直言って、今歌なんて聞かせても……」


 その言葉には、現場を預かる者としての責任感と心配が込められていた。


「はい。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」


 志桜里が丁寧に頭を下げる。その仕草は上品で美しかったが、声が僅かに上ずっているのが分かった。




 管理人が重いため息をついて去った後、俺は意を決して志桜里に近づいた。


「なあ、志桜里」


「阿須那くん」


 振り返った彼女の瞳には、決意と不安が複雑に入り混じっていた。

 薄いピンクのワンピースが体育館の冷たい蛍光灯に照らされて、どこか儚げに見える。



 正直に言うことにした。


「俺はさ……心から『頑張れ』って言えない自分がいるんだ」


 志桜里の表情が一瞬曇った。


「今回は今までやったダンジョンライブとは全然違う。ここにいる人たちは不安と疲労の極限状態だ。そんな時に歌を歌うってことは、下手したら逆効果になりかねない」


 体育館の向こう側を見渡した。

 毛布にくるまった家族連れ、疲れ切った表情のお年寄り、泣き止まない赤ちゃんを抱えて途方に暮れる母親——みんな、本当にギリギリのところで持ちこたえているように見えた。



「志桜里に罵声を浴びせられたり、物を投げられたりする可能性だってある。それでも……やるのか?」


「……うん」



 志桜里の声は静かだったが、その奥に揺るぎない意志があった。

 魔銃を胸に抱きしめるように持っている。


「そこまで決意が固いんだな」


「うん。あのね、阿須那くん」


 彼女は俺を真っ直ぐ見つめた。

 その瞳の奥に、何か深い想いが宿っているのを感じる。


「私……まだFランクの探索者で、Bランクのスタンピードなんて近づくことすら許されてない」


 志桜里の声に、悔しさが滲んでいた。

 小さく握りしめられた拳が、彼女の心境を雄弁に物語っている。


「阿須那くんたちが命の危険を冒してまでみんなを守ろうとしてるのに、私には何も出来ない。それが……すごく歯痒かった」


 その言葉に、胸が締め付けられた。

 俺たちが戦場に向かう一方で、彼女は後方で祈ることしかできない——その無力感がどれほど辛いものか。


「だからといって足手まといになるのも嫌だった。だから、私には私にしかできないことを……って必死に考えたの」


 志桜里の声は次第に力強くなっていく。


「確かにブーイングされるかもしれない。物を投げられるかもしれない。でも、みんなだって命を張ってるんでしょ? 私だって覚悟の上よ」


 華奢な体に、これほどまでの決意が宿っているなんて。

 志桜里という少女を見くびっていたのかもしれない。




「実は……俺も志桜里と同じ気持ちだった」


 思わず口をついて出た言葉だった。


「阿須那くんも?」


 志桜里の瞳が見開かれる。


「俺さ……『重慶の悪夢』の話を聞いてから、正直すげえ怖くなったんだ」


 天井を見上げた。

 体育館の古い蛍光灯が、チラチラと不安定に光っている。


「ヒーローみたいに立ち向かおうとしたって、結局はただモンスターにやられて、誰にも見向きもされないまま死ぬだけなんじゃないかって。でも、だからといってみんながやられるのを見てるだけなのも嫌だった」


 エリカたちから聞いた重慶の惨状——一万人近い死者、崩壊する街、逃げ惑う人々。

 その光景が今でも胸の奥に重く残っていた。



「分かるよ。でも阿須那くん」


 志桜里の声が、俺を現実に引き戻した。


「私は……阿須那くんに死ぬ覚悟だけは、して欲しくない」


 その言葉の重みに、息を呑んだ。


「え?」


「命を賭けるほど危険なことだって分かってる。でも、阿須那くんがいなくなったら私は……」


 志桜里の頬が薄っすらと赤くなった。

 その美しい顔に浮かんだ感情の深さに、心臓が早鐘を打つ。


「あ、あの、変な意味じゃないの! でも! 約束して。絶対死なないでって」


 慌てて手を振る志桜里の仕草があまりにも可愛らしくて、思わず微笑んでしまった。

 こんな状況なのに、彼女のその反応に心が和む。


「分かった。約束する。絶対死なない」


「命を賭けないで欲しいの。命を張って欲しい」


 首を傾げた。


「……え? どう違うんだ?」


「えっと……その、命を簡単に投げ出さないで欲しいという意味で……命を張るのも確かに覚悟をするんだけど……あれ? どう説明したらいいのかな」


 志桜里が困ったように眉をひそめる姿を見て、胸が温かくなった。

 こんな時でも、彼女らしい一面を見せてくれる。


「いや、なんとなくだけど言いたいことは分かるよ。ありがとう、志桜里」


 そんな俺たちの会話を聞いていた星凛が、くすくすと笑いながら機材の調整を続けている。




「……私はライブをするだけじゃなくて、避難民の人たちに伝えたいことがあるの」


 志桜里の表情が再び真剣になった。


「アンナという人に嘘を広められるなら、私は真っ向から真実を伝えたい。みんな必死にあなたたちを守ろうとしてますって。決して希望を捨てないでくださいって」


 その言葉に込められた強い意志に、圧倒された。


「志桜里は志桜里なりの戦い方があるんだな」


「うん」


 少し躊躇ったが、どうしても聞きたいことがあった。




「なあ、そこまで覚悟を決めて人の心を癒したいと思った理由ってなんだ?」


「理由……」


 志桜里は少し俯いて、銀色の髪が頬にかかった。

 その表情に、懐かしむような、でも深く悲しげな影が差す。


 沈黙が流れた。

 体育館の雑音も、なぜかこの瞬間だけは遠くに聞こえる。




 やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。


「実は……お兄ちゃんが亡くなった後、私、すごく荒れてたの」


「え?」


 思わず目を見開く。

 いつもの上品な志桜里からは想像できない告白だった。


「お兄ちゃんを失った悲しみと怒りで……家族にも、周りの人にも、すごく冷たく当たってた」


 志桜里の声が小さく震え始める。


「『なんでお兄ちゃんが死ななきゃいけなかったの』『なんで私だけ置いていかれたの』『なんでみんな同情の言葉ばっかりかけてくるの』って……」


 その美しい顔に浮かんだ痛みの深さが、胸を鋭く突き刺した。

 こんなにも辛い過去を抱えていたなんて。


「母さんは私の前で泣くことも我慢して、『お兄ちゃんは立派だったね』って言ってくれてたのに……私は母さんに向かって『そんなの慰めにならない』って叫んだり……」


 志桜里の声がさらに小さくなる。

 まるで、その時の自分を恥じているかのように。


「友達がお見舞いに来てくれても『お兄ちゃんが死んだことの何が分かるの』って冷たく追い返したり……本当に最低だった」


 何も言えなかった。

 いつも笑顔で明るい彼女の裏に、そんな深い闇があったとは。


「そんな時に……一人のVtuberの女の子の配信を偶然見つけたの。その子も大切な人を失って、私と同じようにすごく辛い思いをしてた」


 志桜里は顔を上げた。

 その瞳に涙が浮かんでいる。

 透明な雫が長い睫毛に宿って、まるで宝石のように光っていた。


「でも、その子は言ったの。『悲しみを抱えながらでも、誰かを笑顔にできるなら、きっと大切な人も天国で喜んでくれる。私たちが笑顔を失ったら、その人の死が無駄になっちゃう』って」


 志桜里の声が震える。

 だが、それは悲しみだけではない——何か強い感動に震えているようだった。


「その時、雷に打たれたような気持ちになったの。お兄ちゃんは人を守って死んだのに、私は誰も守れないどころか、大切な人たちを傷つけることしかしてなかったって」


 涙が一筋、志桜里の頬を伝って落ちた。

 だが、その表情には確かな決意の光が宿っている。


「それで決めたの。お兄ちゃんが最後まで守ろうとした『人々の笑顔』を、今度は私が守るんだって。お兄ちゃんが戦場で剣を取ったように、私は歌という武器で戦うんだって」


 志桜里は魔銃を両手で大切そうに抱えた。

 その仕草には深い愛情と、揺るぎない決意が込められている。


「だから、今回も同じ。みんな怖くて、不安で、心が折れそうになってる。家族と離ればなれになって、いつ再会できるかも分からない。そんな時だからこそ、誰かが希望を歌わなきゃいけない」


 彼女の声が力強くなっていく。

 華奢な体のどこにそんな強さが宿っているのだろう。


「お兄ちゃんが命を賭けて守ったこの世界で、私は歌で人々の心を守りたい。それが……お兄ちゃんへの一番の恩返しだと思うから」


 志桜里は微笑んだ。

 それは悲しみを乗り越えて辿り着いた、強くて美しい笑顔だった。

 薄いピンクのワンピースを着た彼女は、まるで戦場に向かう聖女のように神々しく見えた。



 完全に言葉を失った。


 こんなにも深い想いを胸に秘めて、彼女は今日この場に立っているのか。

 志桜里という少女のことを、全然分かっていなかった。


 彼女は確かに戦士だった。

 剣や魔法ではなく、歌という武器で人々の心を守ろうとする——真のヒーローだった。


「志桜里……」




 何かを言いかけた時、体育館の向こう側から怒号が響いてきた。


「おい! あの子たちは何をやってるんだ!」


「こんな時に歌って遊ぶつもりか! ふざけるな!」


「場を弁えろ! ここは避難所だぞ!」


 避難民の一部が、志桜里たちの準備に気づいて文句を言い始めていた。

 疲労と不安で追い詰められた人々の怒りが、まるで矢のように飛んでくる。


 志桜里の表情が一瞬強張った。

 だがすぐに、決意を込めた微笑みに変わる。


「大丈夫。覚悟してたから」


 彼女は魔銃を構え、星凛に向かって小さく頷いた。

 その横顔には、もう迷いはなかった。




「星凛ちゃん、お願いします」


「おっけー、志桜里ちゃん! みんなをびっくりさせたろやないの!」


 星凛がノートパソコンのキーを叩くと、スピーカーから美しく響く前奏が流れ始めた。



 その瞬間、体育館の空気が一変した。


 避難民たちの怒声が一瞬ぴたりと止み、代わりに好奇心と困惑の視線が一斉に志桜里に注がれる。

 蛍光灯の光を浴びて立つ彼女の姿は、まるで舞台の上の歌姫のように美しかった。


 拳を強く握りしめた。

 明後日、俺たちが戦場で命を賭けている時、志桜里もここで自分なりの戦いをするのだろう。


 彼女の歌声が、果たして絶望に沈む人々の心に光を灯すことができるのだろうか——


 そして俺たちは、その美しい歌声に恥じないような戦いができるのだろうか。


 Bランクスタンピードまで、あと2日。


 避難所へ向かう志桜里の後ろ姿が、いつもより大きく見えた。

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