第136話
電車が駅に滑り込む音が響く中、それぞれの思いを抱えていた。
そのとき、頭上でククルが突然固まっているのに気づいた。
半透明の体が微かに震え、普段の無邪気な表情が一瞬で警戒色に変わっている。
「どうした、ククル?」
「あ、えーっと……」
彼女は慌てたように手をひらひらと振ったが、その視線は確実に何かを捉えていた。
「実は今、ちょっと気になることが」
眉をひそめた。
ククルの直感は大抵的中するから、見過ごすわけにはいかない。
「何が気になるんだ?」
「向こうの車両から、すっごく嫌な気配がするんだよね」
ククルが指し示したのは、三両前の車両だった。彼女の半透明の顔が青ざめている。
「まるで……血の匂いみたいな。でも違う。もっと冷たくて、計算高い感じ」
振り返りたい衝動を抑えた。
ククルが感じ取ったということは、相当危険な人物がいる可能性が高い。
「アスちゃん、振り返っちゃダメ。きっと監視してる」
ククルの警告に、背筋に冷たいものが走った。
その時、星凛が俺たちの会話に反応した。
「阿須那、何か感じるん?」
彼女の指がノートパソコンのキーボードを叩き始める。
画面には複数のウィンドウが開かれ、リアルタイムでネットワークトラフィックを解析するツールが動いている。
「最近、ネット上での活動がやりにくくなってるねん」
星凛の声に苛立ちが混じった。
「阿須那が言ってた通り、アストラルとハヤテへの組織的な攻撃が本格化してるわ。この数日間、ずっと奴らと情報戦やってたんや」
画面にはIPアドレスの追跡結果や、不自然なアクセスパターンを示すグラフが表示されている。
星凛の指が驚異的な速度でキーボードを叩いていく。
「例の偽造動画の件、詳しく調べてみたんやけど、想像以上に巧妙やった」
「どういうこと?」
村山が身を乗り出した。
「まず第一段階で、複数のアカウントが同時に『疑問』を投稿するねん。『考えすぎかもしれないけど、連携が取れすぎてない?』って感じでな」
星凛は画面を村山に見せながら説明した。
「そして第二段階で、『もっともらしい懸念』にエスカレートさせる。『調べてみたらこんな証拠が』って感じで、活動場所や日時の一致を指摘したりな」
「典型的な世論誘導の手法ですね」
村山が冷静に分析した。
「そして第三段階で、あの偽造動画や。『探索者協会元職員の内部告発』として決定打を放ったんや」
星凛の声に怒りが込められていた。
「でも、工作員がいるってことか?」
「そうや。しかも相当なスキルを持った奴が」
星凛は画面の一部を指差した。そこには複数のサーバーを経由した複雑な通信ログが表示されている。
「見てみ、このプロキシチェーンの構築方法。普通のハッカーやったら、せいぜい3〜4段階や。でもコイツは12段階もプロキシを経由してる。しかも、各段階でパケットの断片化と再構築を行ってる」
専門用語がよく分からなかったが、星凛の興奮ぶりからその技術の高さが伝わってくる。
「それってすごいことなのか? 専門用語を言われても俺にはさっぱり……」
「アスちゃん、こういうのは『考えるな、感じろ』って聞いたことあるよ」
村山が苦笑いを浮かべながら補足した。
「簡単に言えば、足跡を消すのが異常に上手いってことですね。普通の人が学校に一直線で行くのに、この相手は12回も寄り道して、その度に変装もしてるみたいな感じです」
「あー、そういうことか」
何となく分かってきた。
「すごいなんてもんやない。この技術レベルやったら、国家機関のサイバー部隊クラスや」
星凛の眼鏡が光った。
「うちも対抗してるけど、相手は組織やから人数が違う。一人じゃ限界があるねん」
画面には、星凛が作成したカウンター情報のデータが表示されていた。
だが、その数は敵の工作活動に比べて圧倒的に少ない。
「でも、どうしてアストラルとハヤテをそんなに攻撃するの?」
志桜里が素朴な疑問を口にした。
「邪魔だからだよ、きっと」
ククルが頭上で腕を組んだ。
もちろん、志桜里には聞こえていない。
「阿須那が説明してくれた『革命』とやらを企んでる人たちにとって、正義のヒーローは目障りなんだろうね」
俺は複雑な気持ちでククルを見上げた。
彼女の言う通りだろう。
アンナたちが社会の信頼を破壊しようとしているなら、人々に希望を与える存在は確かに邪魔だ。
「でもな」
星凛が急に笑顔を見せた。
「うちにも秘策があるねん」
彼女は別のウィンドウを開き、そこには膨大なデータの解析結果が表示されていた。
「工作員たちの行動パターンを逆解析してるねん。いつ、どこから、どんな内容を投稿するか——全部データ化した」
村山の目が輝いた。
「それは……予測可能ということですか?」
「そうや! もう敵の次の手は読めてる。だから先手を打てるねん」
星凛の指が再びキーボードを踊る。
「今夜8時に『決定的証拠』を投下してくる予定やから、うちは7時半に予防線を張る。奴らの『証拠』が偽造であることを事前に証明したるわ」
その時、電車が急ブレーキをかけた。車内放送が響く。
「お客様にご案内いたします。線路内に異常が発見されたため、安全確認のため一時停車いたします」
乗客たちがざわめき始めた。
だが、俺たちの間には別の緊張感が走っていた。
「まさか……」
村山が呟いた。
「偶然ですよね?」
星凛の画面を見ると、ネットワークの監視ツールが異常を示していた。
「やばい。うちのIPアドレス、特定されたかもしれん」
星凛が慌ててノートパソコンを閉じた。
「今すぐ回線切断した方がええ」
ククルが俺の肩を叩いた。
「アスちゃん、なんか怖い」
彼女の不安そうな声に、俺の胸も締め付けられた。
確かに、この状況は偶然にしては出来すぎている。
「大丈夫だ」
俺は静かに言った。
志桜里の不安そうな表情を見て、できるだけ落ち着いた声で続けた。
「星凛の技術があれば、きっと何とかなる。それに——」
俺は立ち上がり、窓の外を見た。
線路脇に作業員の姿が見える。本当に安全確認のための停車のようだった。
「世の中にはな、嘘に負けない真実があるんだ」
その言葉に、ククルが嬉しそうに微笑んだ。
「そうだよ! アスちゃんの言う通り!」
彼女は宙でくるくると回った。
「どんなに嘘を流されても、本当のことは本当のこと。アストラルとハヤテが人を助けてるのを見た人は、絶対にそれを忘れないよ」
俺はククルの姿を見ながら、心の中で誓った。
このまま黙って見ているわけにはいかない。
俺にも何かできることがあるはずだ。
「星凛」
俺は彼女に向き直った。
「もし俺にも手伝えることがあるなら、何でも言ってくれ」
星凛の目が驚きで見開かれた。
「阿須那……でも、危険やで?」
「関係ない」
俺の声に迷いはなかった。
「仲間が困ってるのに、手をこまねいて見てるなんてできない」
志桜里が俺の袖を引っ張った。
「私も……私にも何かできることがあるなら」
村山も眼鏡を上げて言った。
「僕もです。ダンジョン部の件で、もう後には引けません」
星凛の瞳に涙が浮かんだ。
「みんな……ありがとう」
彼女はノートパソコンを再び開いた。
「なら、みんなでやったろか。一人で戦うより、仲間と一緒の方が強いもんな」
画面には無数のウィンドウが開かれ、複雑なプログラムが起動していく。
「覚悟しいや、工作員ども。うちらの絆の力、思い知らせたるからな」
車輪の音と共に、俺たちの新たな戦いが始まろうとしていた。
敵は思った以上に手強い。
そして、俺たちの戦いはもう始まっているのかもしれない。
だが、俺には仲間がいる。
ククル、志桜里、星凛、村山——みんなで力を合わせれば、きっと何とかなる。
そう信じて、俺は前を向いた。
「うちがハッカーとして言えるのは、どんなに精巧でも偽造は必ず痕跡を残すってことや。大事なのは、一つの情報だけで判断せん、複数のソースを確認する、発信者の意図を考える——これだけで大半の嘘は見抜けるで」