第134話
11月26日。
Bランクスタンピード発生まで、あと4日。
二条城本丸最上階、緊急指揮所。
普段なら歴史的な御殿として観光客で賑わう場所が、今夜は日本の運命を左右する密談の舞台となっていた。
古い障子の向こうに見える京都の夜景は美しく、まるで宝石を散りばめたかのように光り輝いている。
しかし、その美しさとは対照的に、室内の空気は重く張り詰めていた。
林勇太郎は制服の襟を正し、畳の上に置かれた机の上に広げられた資料に目を通していた。
橘慧から届いた詳細なレポート——アンナの巧妙な情報操作計画について書かれた、ページ数にして20枚を超える分析書類だった。
「なるほど、確かに巧妙だ」
林の声は低く、その奥に抑えた怒りが込められていた。
左頬の傷跡が、電気スタンドの光で深く影を作っている。
「『問題・反応・解決』の三段階戦略か。古典的だが、実に効果的な手法だな」
資料のページをめくりながら続けた。
「だが、自衛隊はこうした情報操作による批判には慣れている。何十年も前から、同じような手口で攻撃されてきたからな」
その言葉に、対面に座るハヤテの表情が僅かに緩んだ。
三度笠を膝の上に置いた彼の素顔は、月光に照らされて青白く見える。
道中合羽も脱ぎ捨てた今、普通の着物姿となったハヤテからは、股旅としての演技的な要素が完全に取り払われ、その知性と美貌がより一層際立って見えた。
「それでも、今回は規模が違います」
ハヤテの声には、これまでにない切迫感があった。
指先で畳を軽く叩きながら、慎重に言葉を選んでいる。
「アンナは単なる批判では終わらせない。国民の信頼そのものを根底から破壊し、社会秩序を混乱に陥れるつもりです」
林は資料の中の写真——ダンジョン部の高校生たちの顔写真を見つめながら、深いため息をついた。
「ダンジョン部の高校生たちを『捨て駒』として利用する計画か」
一人一人の顔を見つめながら、その若さと無垢さに胸が痛んだ。
彼らがまさか自分たちの正義感を利用されているとは、夢にも思っていないだろう。
「実に悪質だ。だが、我々にできることは限られている」
林は資料を閉じ、座布団の上でやや身を起こした。
「スタンピード鎮圧と人命救助を最優先に行動するだけだ。批判を受けることを恐れて行動を躊躇すれば、それこそ本末転倒になる」
しばらくの沈黙が続いた。
障子の外では、京都の街灯が静かに瞬いている。
やがて、ハヤテが静かに立ち上がった。
障子の前に歩み寄り、夜景を見下ろしながら口を開く。
「もしダンジョン部が当日現場で暴れるようなら……」
彼は一度言葉を切った。
まるで自分でも、これから口にすることの重大さを測りかねているような表情だった。
「考えがあります」
その声のトーンに、林の背筋が自然と伸びた。
これまでとは明らかに違う、より深く、より覚悟を込めた響きがあった。
「どのような?」
ハヤテは振り返り、林の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、常人では理解できないほどの覚悟が宿っている。
「阿須那のスキルを使えば、可能です」
彼はそれ以上の詳細は語らなかった。
ただ、障子に映る自分の影を見つめながら、静かに続けた。
「ただし、私が——」
「まさか」
林の声が震えた。
ハヤテの表情、その瞳に宿る決意——それだけで、彼が何を考えているかを察してしまった。
「君一人でそんな危険を冒すつもりか?」
思わず立ち上がった林の顔は青ざめていた。
軍人として数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼が、ここまで動揺することは滅多にない。
「正気か?」
「大丈夫です」
ハヤテの声は静かだったが、その奥に揺るぎない決意があった。
「私には、守らなければならないものがあります。そのためなら、どんな危険も冒します」
彼の視線が一瞬だけ遠くを見つめた。
まるで大切な記憶を思い返しているかのように。
林は深く息を吸い、ゆっくりと座布団に座り直した。
指を組み合わせ、ハヤテを見つめながら長い沈黙を保つ。
机の上のペンが、僅かに震える指先で軽く音を立てた。
やがて、彼は重い口調で言った。
「……最後の手段としてなら、検討しよう」
その言葉に、ハヤテの肩の力が僅かに抜けた。
「ただし」
林の声が一段と厳しくなる。
「君の安全が最優先だ。無茶をするつもりなら、今すぐその考えは捨ててもらう」
ハヤテは小さく笑った。
それは苦笑にも似た、複雑な表情だった。
「無茶をしない範囲で、最大限の効果を狙います。それが私のやり方です」
二人の間に、再び沈黙が訪れた。
林が湯呑みに手を伸ばし、一口すすった時だった。彼の表情が少し柔らかくなる。
「ところで」
林が資料の束を軽く叩きながら言った。
「このアンナという女性の過去を知ると、やりきれない気持ちになる」
ハヤテの表情が一瞬で曇った。
「本来は善良な医師だったのに、今では『革命』の工作員として……」
林の言葉が途切れた。
ハヤテの表情の変化に気づいたからだ。
「彼女を救うことは、できないのか?」
その問いに、ハヤテは長い間答えなかった。
障子に向き直り、京都の夜景を見つめている。
やがて、苦しそうな表情で口を開いた。
「分かりません」
彼の声は掠れていた。
「でも、今の私にできることは限られています」
彼の拳が固く握りしめられた。
「まずは、スタンピードを止めることです。アンナのことは……その後で考えます」
林は静かに頷いた。
軍人として、時には感情を押し殺して現実的な判断を下さなければならないことを、彼は誰よりも理解していた。
「では、作戦の詳細を詰めよう。残り時間は少ない」
二人は再び資料に向き合った。
運命の4日間が始まろうとしていた。
◇◇◇
同じ夜、午後11時過ぎ——
埼玉の時の鐘ダンジョン、第4層。
大きく開けた広場で魔法の練習に没頭していた。
足元には開かれたスキルブック、そして床には呪文の練習で焦げた跡がいくつも残っている。
今度の戦いに向けて、少しでも実力を上げておきたかった。
「くそっ、また失敗した……」
拳を床に叩きつけた。
右手に浮かべた光の球と、左手の闇の球が、融合させようとした瞬間に激しく反発し合って消えてしまう。
「アスちゃん、さっきから同じことの繰り返しだよ?」
天井近くでふわりと浮かぶククルが、心配そうに見下ろしていた。
「分かってるよ。でも、どうしても光と闇の融合属性を覚えたいんだ」
床に座り込み、天井を見上げた。
時計はもう深夜0時を回ろうとしている。
明日にはもう京都に向かわなければならない。
「なんで急に融合属性なの? アスちゃんの魔法、十分強いじゃん」
ククルの疑問に、苦い笑いを浮かべた。
「ルビーの血液操作を見ただろ? あれは水と闇の融合属性だった」
あの時の戦いを思い出すと、今でも悔しさがこみ上げてくる。
「俺はまだ、光と闇を別々に使うことしかできない。でも彼女は二つの属性を融合させて、全く新しい力を作り出していた」
「でも、前のスタンピードで見せた【アビス・セイクリッド・ジャッジメント】とか【闇光檻】があるじゃん」
ククルが首を傾げて言った。
「あれは違うんだ」
再び立ち上がり、右手に光、左手に闇のエネルギーを浮かべてみせた。
「あの時のは『並行発動』だった。光50%と闇50%を同時に使っただけ。でも俺が目指してるのは、光と闇が化学反応を起こして生まれる『第三の属性』なんだ」
二つのエネルギー球を近づけようとした瞬間——
バチッ!
激しい音と共に、両方のエネルギーが相殺されて消えてしまった。
「やっぱりダメか……」
溜息をついた俺に、ククルがぽんと手を叩いた。
「それじゃあアスちゃん、無理に新しいことしなくても、今ある魔法を強くするのはどう?」
その言葉にハッとした。
そうだ。残り時間を考えれば、複合属性の習得なんて一朝一夕でできるものじゃない。
それなら——
「今ある魔法の一つだけでも、威力を上げる」
手元のスキルブックを見つめた。
【闇光檻】【光明破天】【漆黒の審判】——これらの魔法のうち、どれか一つでも改良できれば、確実に戦力向上につながるはずだ。
「よし、【漆黒の審判】に集中しよう」
決意を新たに、右手に闇のエネルギーを集中させた。融合属性は諦めたが、闇の弾丸の威力向上なら現実的だ。
弾丸の形状を変えてみる。回転を加えてみる。圧縮率を上げてみる——
「そうそう、それでいいよアスちゃん!」
ククルが嬉しそうに拍手した。
「完璧じゃなくても、今のアスちゃんにできることを精一杯やる。それがアスちゃんらしいよ」
彼女の言葉に、胸が温かくなった。
明日からの戦いに向けて、自分なりの答えを見つけていた。
新しい力を求めるより、今ある力を磨き上げる——それが俺のヒーローとしての道だった。
深夜の練習は続く。
スタンピードまで、あと4日。