第133話
ハヤテとの連絡は、思っていたより早く取ることができた。
夜の9時を回った頃、スマホが振動した。
画面に「ハヤテ」の文字が浮かび上がる。
胸の奥で何かが締め付けられるような感覚があった。
昨日の屋上での会話の重さが、まだ肩にのしかかっている。
「もしもし、ハヤテ?」
「お疲れ様。少し話があるんだが、今時間はあるか?」
受話器の向こうから聞こえるハヤテの声は、いつもの股旅を脱いだ素の口調だった。
だが、その奥に隠された疲労感を見逃さなかった。
まるで重い荷物を背負ったまま長距離を歩き続けているような、深い疲れ。
「ああ、大丈夫だ。こっちからも報告したいことがある」
深呼吸してから、昨日慧から聞いた内容と、屋上での仲間たちとの会話について手短に説明した。
アンナの巧妙な情報操作計画、ダンジョン部の生徒たちが知らずのうちに「捨て駒」として利用されている事実、そして村山の母親が受けたカルト教団の洗脳手口との類似点。
話を聞き終えたハヤテは、しばらく沈黙していた。
電話越しでも伝わってくる重い空気に、心臓の鼓動が早まった。
「やはり……そういうことだったか」
彼の声は低く、どこか遠い響きを帯びていた。
「言ったら悪いけどさ」
言葉を選びながら続けた。
「俺たちの知るアンナは、人の心を自分の目的のために使い捨てにする最低な女だと言わざるを得ないよ。だけど、お前が知っているアンナはそんな——」
「違う」
言葉を遮るように、ハヤテの声が響いた。
それは静かだったが、芯の通った力強さがあった。
まるで俺の認識を根底から否定するような、確固たる意志を感じる。
「え?」
「アンナは——僕の知っているアンナは、そんな女性ではない」
ハヤテの声に込められた確信に、息を呑んだ。
今まで見たことがないほど強い感情が、電話越しでも痛いほど伝わってくる。
「じゃあ、アンナはどんな人だったんだ?」
問いに、ハヤテは少しの間沈黙した。
まるで大切な記憶の箱を慎重に開けるような、躊躇いを感じる沈黙だった。
「……少しだけなら、話してもいい」
彼の声が僅かに柔らかくなった。
まるで遠い記憶の中から、大切な人の面影を取り出しているような温かさがあった。
「彼女は自分の美しい顔を自慢していた」
「え?」
予想外の言葉に、思わず聞き返した。
「悪い意味ではないよ」
ハヤテの声に、僅かな笑みが混じった。
懐かしむような、愛おしむような響きだった。
「アンナはその顔を見せびらかすだけじゃもったいないと主張していた。せっかく神から頂いた贈り物だから、困っている人たちのために使うべきだと」
言葉を失った。
それは俺が知っているアンナとは、まるで正反対の人物像だった。
「発展途上国の子供たちは、外国人の医師を怖がることが多い。でも彼女が微笑みかけると、子供たちはすぐに安心して心を開いてくれた。『私の笑顔で誰かの恐怖が消えるなら、それが一番の治療』と彼女は言っていたよ」
ハヤテの声が次第に遠くなっていく。
まるで時間を遡って、失われた過去の中に戻っていくような。
「変わった人だったよ。『美は社会貢献のためにあるべき』なんて、普通の人は考えないからね」
その言葉に込められた愛情の深さに、胸が詰まった。
彼がどれほどアンナを愛していたか、そしてその愛がどれほど深い痛みに変わってしまったかが、痛いほど伝わってくる。
「それが……今の彼女になってしまったんだ」
ハヤテの声に、諦めにも似た悲しみが滲んだ。
受話器を握る手が震えているのを感じた。
ハヤテの愛したアンナと、俺が見た冷酷なアンナ。
その落差があまりにも大きすぎて、言葉が見つからない。
「でも、それならなおさら——」
言いかけた時、ハヤテの声が再び響いた。
「ところで、阿須那」
彼の声のトーンが急に真剣になった。
まるで重要な決断を迫るような響きがある。
「スタンピードでは、死者の発生は避けられない」
その言葉に、血が凍った。
「ククルを本当に連れていくのか?」
天井近くでふわりと浮かんでいるククルを見上げた。
半透明の少女は、明らかに電話の内容を聞いている。
その表情には不安と迷いが混ざり合っていた。
「あ……」
思わず声を漏らした。
完全に忘れていた。いや、忘れていたわけではない。
無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
「アスちゃん……」
ククルの声は小さく震えていた。
中華街ダンジョンでの出来事を思い出した。
死体を見た瞬間のククルのパニック状態。あの激しい拒絶反応。
彼女にとって死というものは、俺たちが想像する以上に深刻なトラウマなのだ。
「私……アスちゃんと一緒に行きたいよ」
ククルは必死に言葉を絞り出した。
「死体を見ると、やっぱり怖くて……動けなくなっちゃう。アスちゃんの足手まといになっちゃうかもしれない」
ククルの正直な告白に、胸が痛んだ。
彼女がどれほど悩んでいるか、その透明な表情からも伝わってくる。
「でもね」
ククルが顔を上げた。
その瞳に、小さいながらも確かな決意の光が宿っている。
「アスちゃんを一人にはしたくないの。きっと危険なことになるでしょ? だから、怖くても一緒に行く」
彼女の言葉に、胸が熱くなった。
恐怖と戦いながらも、俺のために勇気を振り絞ろうとしてくれている。
「ククル……」
「でも、もしダメだったら……その時は逃げちゃうかもしれない。ごめんね」
彼女の素直な告白に、思わず笑ってしまった。
それは不安を隠すための笑いではなく、ククルの可愛らしさと勇気に心を動かされたからだった。
「当たり前だろう」
手を伸ばし、ククルの頭を優しく撫でた。
半透明な髪が指先に温かく触れ、彼女の存在を確実に感じることができる。
「無理はするな。お前の安全が一番大事だ」
ククルの表情が、ぱあっと明るくなった。
まるで花が咲いたような、美しい笑顔だった。
「ありがとう、アスちゃん! やっぱりアスちゃんは優しいね」
彼女は嬉しそうにくるくると宙で回転した。
その無邪気な姿を見ていると、明日からの戦いの重圧も少しだけ軽くなる気がした。
「でも、一つだけ約束して」
真剣な表情でククルを見つめた。
「もし危険を感じたら、すぐに俺から離れること。お前を失うぐらいなら、俺は一人で戦う方がマシだ」
ククルは小さく頷いた。
その瞳に涙が浮かんでいるのを、見逃さなかった。
「うん。でも、アスちゃんも無茶しちゃダメだよ。ククルもアスちゃんを失いたくないから」
再び受話器を取った。
「ハヤテ、聞こえてたか?」
「ああ。ククルにとって辛い決断だな」
ハヤテの声には理解と同情が込められていた。
「僕としては、無理をして連れて行くべきではないと思う。戦場で精神的に不安定になれば、本人にとっても、僕らにとっても危険だから」
頷いた。合理的な判断だと分かっている。
でも、心の奥では——ククルと一緒に戦いたいという気持ちもあった。
「分かった。ククルの気持ちを尊重する」
ハヤテの声に安堵が混じった。
「では、明後日また連絡するよ。お疲れ様」
電話を切った後、窓の外を見つめた。
明日からの戦いがどれほど困難なものになるか、俺たちにはまだ想像もつかない。
だが、この小さな幽霊の少女と共になら、きっと乗り越えられる。
そんな確信を胸に、明日への準備を始めた。
窓の外では、京都の夜景が静かに輝いている。
この美しい古都を守るために、俺たちは戦うのだ。
Bランクスタンピードまで、あと5日。
電話を切った後の静寂の中で、自分の心臓の音だけを聞いていた。