第129話
30層のボス部屋に足を踏み入れた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
高さ20メートルはあろうかという円形の神殿。
天井から垂れ下がる古い根、壁面に浮かぶ朱と黒の古代壁画。
そして中央に逆さまに浮かぶ巨大な朱色の鳥居。
その下に、異形の存在が鎮座していた。
美しい人間の女性だが、背後には五本の巨大な狐の尻尾。
背中からは歪んだ鳥居が突き出し、全身を覆う黒い霧——昭和記念公園で見たあの禍々しい物質と同じものが、神の体を侵食している。
稲荷神骸。かつての神が人間の欲望に触れて歪んでしまった存在。
「うわぁ……アスちゃん、あれすっごく嫌な感じがするよ……」
ククルの震え声が聞こえた時、稲荷神骸の金色の瞳が俺たちを捉えた。
瞬間、空気が一変する。神殿全体に青白い炎が舞い踊り始めた。
「散開でござんす!」
ハヤテの鋭い声と共に、俺たちは四方に散る。
稲荷神骸の右手が振り上げられ、天から朱色の鳥居が降ってきた。
「きゃ♪ さすが神様!」
ルビーが楽しそうに叫びながら血液を操り、俺は【幻影奈落行】で瞬間移動する。
戦いは激しさを増した。
ハヤテの連環刀、ルビーの血液操作、そして俺の光と闇の魔法。
だが神の力は圧倒的で、一筋縄ではいかない。
俺は新たな戦術を思いついた。
【四大元素・全体強化】のスキルカードを意識し、まず【闇光檻】を発動。
光と闇が混ざり合った檻が稲荷神骸を拘束する。
「今だ! 集中攻撃を!」
連携攻撃が功を奏し、ついに俺の【光明破天】が神格の核を貫いた。
稲荷神骸は天を仰ぎ、長い咆哮を上げて黒の粒子となって消えていく。
「やったー! アスちゃん、かっこよかった!」
ククルが嬉しそうに俺の周りを回った。
だが、ルビーだけは違っていた。
消えゆく神を名残惜しそうに見つめ、小さく溜息をついている。
「残念……もう少し観察したかったのに」
その呟きに、俺は改めて彼女への警戒心を強めた。
◇◇◇
20層のワープポイントまで戻ってきた時、俺の心臓が止まりそうになった。
そこに、見知らぬ男が立っていたのだ。
痩せぎすの長身で蒼白な肌、血のように赤い瞳。
白い手術衣の上から黒い革のコートを羽織り、顔の下半分は医療用マスクで覆われている。
その隣には白衣を着た研究員らしき人物も。
「お疲れ様でした」
男の声は感情のない、冷たいものだった。
「ルビー、ご苦労様」
男——ブラッドレターがルビーに声をかけると、彼女は嬉しそうに駆け寄った。
「先生! 無事に連れてこれました♪」
連れてこれた——?
俺の血が一瞬で凍りついた。
「ルビー……まさかお前……」
振り返った彼女の顔に浮かんでいたのは、これまで見たことのない冷ややかな笑みだった。
無邪気だった少女の仮面が完全に剥がれ落ち、代わりに現れたのは計算高い悪意に満ちた表情。
「ごめんなさい、阿須那さん」
その声に、もはや迷いはなかった。
「でも、先生の研究のためなの。特にハヤテさんは、先生がずっと興味を持ってた貴重なサンプルなのよ♪」
サンプル——その単語が俺の胸に突き刺さった。
俺たちは、最初から『実験材料』として見られていたのか。
あの無邪気な笑顔も、戦闘中の興奮も、すべてが演技だったのか?
信じていた。
確かに警戒はしていたが、それでも彼女を仲間だと思っていた。
一緒に戦い、一緒に笑い合った時間が——すべてが嘘だったなんて。
「なぜだ……」
俺の声は震えていた。
「なぜ俺たちを騙した? お前だって探索者だろう? 同じ人間じゃないか!」
「人間?」
ルビーが小首を傾げ、まるで理解できないとでも言うように眉をひそめた。
「私にとって、あなたたちは研究対象よ。血液のサンプル。生きた実験材料。それ以上でも以下でもないわ」
その言葉の冷酷さに、俺は言葉を失った。
人としての感情が、この少女には存在しないのか?
「久しぶりだな、遥人」
ブラッドレターの声に、ハヤテの体が硬直した。
遥人——俺の知らないハヤテの本名。
「……貴様」
ハヤテの声は震えていた。
「君が告発して免許を剥奪した後、私は新たな道を見つけた。人体の美しさを追求する、より自由な研究の道を」
「外道が……」
「抵抗は無意味だ。君たちには研究に協力してもらう」
ハヤテが刀を抜こうとした瞬間、ブラッドレターの手から赤い液体が飛び出し、彼の動きを封じる。
俺も魔法を使おうとしたが、研究員の装置によって魔力の流れが遮断された。
絶体絶命——
胸の奥で何かが崩れ落ちていく感覚があった。
ルビーへの信頼、仲間だと思っていた気持ち、一緒に戦った記憶——すべてが砂のように零れ落ちていく。
俺は何を信じればいいんだ? 誰を信じればいいんだ?
その時、ハヤテが低く呟いた。
「二度と、貴様の好きにはさせん」
彼の刀が青白く光り始めた。
次の瞬間、彼の姿が霞のように薄れ——
「【連環刀・真髄】」
瞬間、ハヤテの姿が三つに分かれた。
これまでの幻影とは違う、三体全てが実体を持つ本物の分身。
三体のハヤテが同時に動き、研究員たちを瞬く間に無力化していく。
「あの時には見せなかった技ですね。やはり、あなたは『特別』だ」
ブラッドレターも解剖刀を取り出してハヤテと対峙する。
その時だった。
「アスちゃん、ハヤテ、掴まって!」
ククルの声が響いた。
ブラッドレターとルビーには見えないククルが、俺とハヤテの手を掴む。
瞬間、世界が歪んだ。
【テレポーテーション】——ククルの隠された能力だった。
気がつくと、俺たちは20層の入口付近にいた。
「急いで地上に戻るでござんす!」
ハヤテの分身が合体し、元の一体に戻る。
その瞳が金色に変わっていることに俺は気づいたが、今はそれどころじゃなかった。
「ククル、ありがとう……」
俺が礼を言うと、彼女は少し弱々しく微笑んだ。
「テレポーテーションは疲れるけど……アスちゃんたちを守れてよかった」
俺たちは急いで海遊館ダンジョンの出口に向かった。
◇◇◇
地上に出ると、夕日が大阪の街を赤く染めていた。
だが、俺の心は夕日とは対照的に、重い雲に覆われたように暗かった。
ルビーの裏切り。
あの無邪気な笑顔の下に隠された冷酷な本性。
俺たちを『実験材料』としか見ていなかった事実。
信じることの難しさを、俺は改めて思い知らされた。
「……あの男との関係は?」
俺の問いに、ハヤテは少し躊躇った後、重い口調で答えた。
ハヤテの目はいつの間にか元に戻っていた。
……錯覚だったのだろうか。
「過去に一度、あの男と戦ったことがあるでござんす。あの男は人を『実験材料』としか見ていない狂人でござんす」
ハヤテの拳が固く握られていた。
「あっしも、危うく『解剖台』の上に載せられるところでした」
その言葉に、俺は身震いした。
「でも、遥人って……」
「……詳しくは言えませんが、それがあっしの本名でござんす」
ハヤテの声に、深い疲労感が漂っていた。
「京都に戻るでござんす。時間がない。あと8日でスタンピードが始まる」
俺は拳を強く握りしめた。
ルビーの裏切り、ブラッドレターの登場、そしてハヤテの隠された過去——すべてが京都での最終決戦に向けて収束していく。
だが同時に、俺の中で何かが変わり始めていた。
裏切られることの痛み。信じることの難しさ。
それでも——ククルとハヤテは俺を守ってくれた。
本当の仲間は、まだ俺の側にいる。
影のヒーローとして、俺は必ずこの危機を乗り越えてみせる。
たとえどんな敵が待ち受けていようとも——。