第127話
俺たちは21層から22層へと降りていく石段を踏みしめていた。
足音だけが静寂を破り、時折ククルの「アスちゃん、大丈夫?」という心配そうな声が響く。
ルビーが加わってから、なぜか空気が微妙に重くなったような気がしてならない。
彼女の纏う雰囲気は、美しい毒花のように魅力的でありながら危険な香りを放っていた。
深緑の苔に覆われた22層に足を踏み入れた瞬間、俺の鼻腔に湿った土と腐葉土の匂いが流れ込んだ。
まるで深い森の奥に迷い込んだような錯覚を覚える。
そこで遭遇した翼幅2メートル近い巨大な蛾「朱雨蛾」を、俺たちは連携して難なく撃破した。
だが戦闘中のルビーの反応が気になって仕方なかった。
「きれい……♪ あの鱗粉を吸い込めば動けなくなるのよね。どんな成分なのかしら」
普通なら危険を避けようとするはずなのに、彼女は毒の「研究対象」としての価値にしか興味を示していない。
消滅する蛾を名残惜しそうに見つめる姿に、俺は言いようのない不安を覚えた。
23層の「鏡面仕組獣」戦でも同様だった。
魔法反射能力を持つ厄介な敵だったが、ルビーは戦闘そっちのけで敵の生態に夢中になっている。
「反射の仕組みはどうなってるのかしら? 体毛の構造? それとも魔法的な結界?」
戦闘中にも関わらず、彼女は敵を「研究対象」として観察している。
その冷静さは異常だった。
そして消滅跡を見つめながら呟いた言葉が、俺の背筋を凍らせた。
「残念……標本として持ち帰りたかったのに」
◇◇◇
24層での休憩時、ハヤテからスタンピードに関する重要な情報が共有された。
「現在分かっているのは、このBランクスタンピードの特徴は『禍々しさ』と『変容』でござんす」
石に腰掛けたハヤテの表情は重く、三度笠の陰が彼の顔をより深刻に見せていた。
「黒い液体による侵食と、モンスターの異常変化が主な脅威になるでござんす」
「これはDランクスタンピードの時と同じだな」
俺は昭和記念公園での光景を思い出していた。
あの黒い霧に包まれたモンスターたちの異様さ、そして人々の恐怖に歪んだ顔を。
「そう。だからこそ、偶然ではなく意図的だと考えるのでござんす」
ハヤテの推測に、俺の心が重くなる。
もしスタンピードが人為的なものなら——
「彼らの目的は単純な攪乱だけではないでござんす。何か大きな『変革』を引き起こそうとしている」
「『革命』か……」
俺は思わず呟いた。アンナの言葉が脳裏によみがえる。
(再構築には破壊が必要です……旧秩序が崩れることで初めて、公平な新秩序が生まれる。それが『革命』です)
あの女の冷たい瞳と、狂気じみた確信を思い出して、背筋が寒くなった。
「革命……?」
ルビーが興味深そうに首を傾げた。
その瞬間、彼女の瞳に異様な光が宿ったのを俺は見逃さなかった。
「それって、面白そうじゃない♪ 新しい秩序を作るために古い秩序を壊すのね。とっても……エキサイティング」
彼女の反応に、俺は言いようのない恐怖を覚えた。
普通なら危険を感じて警戒するはずなのに、彼女はまるで興味深い娯楽の話でも聞いているような反応を示している。
「ルビーさん……」
ハヤテが警戒を込めた視線を向けた。
「革命というのは多くの命が失われる恐ろしいことでござんすよ」
「あら、でも」
ルビーは無邪気に首を傾げた。
その仕草は愛らしいはずなのに、その口から出る言葉は氷のように冷たかった。
「新しいものを作るためには、古いものを壊さなければならないでしょう? それって自然なことじゃない?」
その言葉に込められた冷酷さに、俺は身震いした。
彼女にとって人の命は、単なる「材料」程度の価値しかないのかもしれない。
ククルが俺の袖を引っ張った。
「アスちゃん……この子、なんか怖いよ」
半透明の少女の直感は、いつも正確だった。俺もまた、ルビーに対する警戒心を隠し切れずにいた。
◇◇◇
25層への階段を降りながら、俺は考え込んでいた。
ルビーという少女は確かに強力な戦力だが、その価値観は明らかに常人とは異なる。
彼女を信用しても大丈夫なのだろうか?
「25層でござんす。ここから先はさらに危険度が増すでござんす」
ハヤテの警告を受けて、俺たちは気を引き締め直した。
25層と26層の間には巨大な朱色の鳥居が立っていた。
高さは10メートルを超え、その周囲には青白い光を放つ結界が張られている。
近づくだけで、肌に静電気のような刺激を感じた。
「『裏稲荷』から『深稲荷』への境界でござんす」
ハヤテの説明に、俺の緊張が高まる。
「ここを越えると、モンスターの性質が根本的に変わるでござんす」
ククルが先行して調査し、結界に害がないことを確認した後、俺たちは一人ずつ慎重に結界を通過した。
青白い光に包まれた瞬間、全身に電流が走ったような感覚があった。
だが痛みはなく、むしろ体の奥から力が湧いてくるような不思議な感覚だった。
だが、ルビーだけは違った反応を示した。
「あぁ……♪」
結界を通過した彼女は、まるで極上のワインを味わうかのような陶酔した表情を浮かべていた。
頬を紅潮させ、うっとりとした表情で結界のエネルギーを味わっている。
「すごいエネルギー……これって、生命力に直接作用してるのね。興味深いわ」
その反応の異常さに、俺とハヤテは顔を見合わせた。
彼女の体質は明らかに一般人とは違う。もしかすると——
不安が胸の奥で膨らんでいく。
ルビーの正体は、果たして彼女が言う通り「たまたま出会った探索者」なのだろうか?
◇◇◇
26層に入ると、空気がより重く、神秘的な雰囲気に変わった。
床には水鏡のような池が点在し、覗き込むと他の層の風景が映し出される。
試しに一つを覗いてみると、見たことのない荘厳な神殿の内部が見えた。
「鏡池……他の層や時空を映し出すとされる神秘的な池でござんす」
そこで俺たちが遭遇したのは「御供喰らい」だった。
巨大な口だけが宙に浮いているような異形のモンスター。
その口の中は真っ黒な虚無が広がっている。
見ているだけで吸い込まれそうな恐怖感がある。
「うわっ、気持ち悪い……」
ククルが顔を歪めた。
だが、ルビーの反応は全く違った。
「素晴らしい……! この構造、どうなってるのかしら? 空間を歪めて胃袋を作ってるの? それとも異次元に直結してる?」
彼女は恐怖どころか、純粋な学術的興味に燃えていた。
その瞳は宝石のように輝き、まるで貴重な実験材料を前にした狂気の研究者のようだった。
「でも魔力を吸い取ってくるなんて、面倒な障害物ね」
ルビーは少し苛立ったような声を上げたが、その瞳は獲物を見つけた猟犬のように輝いている。
「……いい実験台になりそう♪」
実験台——その言葉に、俺は背筋が凍った。
彼女にとって、このモンスターも単なる「標本」でしかないのか。
「私に任せて!」
彼女の周囲から大量の血液が噴き出し、空中で複雑な形状を描いてモンスターの周りを取り囲んだ。
「血液監獄」と彼女が名付けたその技は、敵を完全に拘束する檻を形成した。
だが、その檻の作り方があまりにも手慣れていることに、俺は恐怖を覚えた。
まるで何度も何度も練習したかのような滑らかさだった。
一体、彼女はこれまでに何を「実験台」にしてきたのだろうか?
「阿須那さん、今よ!」
俺はこの絶好の機会を逃さなかった。
「【神罰の聖痕】!」
天から巨大な光の十字架が降り注ぎ、御供喰らいを直撃。
モンスターは苦悶の叫びを上げ、黒い霧となって消滅した。
「さすが阿須那さん、強いわね♪」
ルビーは嬉しそうに拍手したが、その表情には明らかに失望の色があった。
「もう少し観察したかったのに……でも、仕方ないわね」
その失望の理由を考えると、俺は吐き気を覚えそうになった。
彼女の価値観は、俺たちとは根本的に違っている。
果たして彼女は味方なのか、それとも——
不安が胸の奥で渦巻く中、俺たちはさらに深層へと向かった。
この先に待つ真実が、俺の想像を超える恐ろしいものだとも知らずに。




