第117話
京都の空が鮮やかな朱色に染まり始めた頃、二条城の石垣の上を一筋の風が駆け抜けた。
観光客の声がすっかり消え、残るのは時間の重みだけが漂う古都の夕暮れ。
城内の小高い丘に二人の男が立っていた。
ひとりは背筋をピンと伸ばし、端正な顔立ちに秘めた強さを感じさせる林勇太郎。
もうひとりは三度笠とくすんだ青の道中合羽という、いつもの股旅装束に身を包んだハヤテ。
「風の香りが変わってきた」
林の低く落ち着いた声が、静寂を破った。
普段は制服姿の彼だが、今日はシンプルなスーツ姿。
公の場ではない、ある種の密会であることを示していた。
「ええ、空気が重くなっています」
ハヤテの声は震えていた。
単なる寒さからではない。
過去と直面する恐怖が、彼の言葉を僅かに揺らがせる。
二人の間に流れる沈黙は、表面的な静けさではなく、語られない秘密で満ちていた。
「ここでは『ござんす』口調はなしか」
林の言葉に、ハヤテの肩が小さく震えた。
笑いなのか、緊張なのか、それとも……恐怖か。
「懐かしいですね……こうして昔の声であなたと話すのは」
股旅の仮面を脱ぎ捨てた瞬間、彼の声色は一変した。
江戸時代風の語り口は消え、代わりに現れたのは洗練された若き医師の声だった。
その変化は、まるで仮面を外した瞬間のように鮮烈だった。
「その声も三年ぶりだな」
林は手すりに肘をつき、京都の町並みを見下ろした。
夕日が石垣に当たって長い影を作り、古都の厳かな美しさを際立たせている。
「黒神遥人」
名前を呼ばれた瞬間、ハヤテの顔に影が落ちた。
まるで古い傷を抉られたような痛みが、彼の表情に走る。
「お願いします……その名前はもう」
その声には、三年分の苦しみが凝縮されていた。
林はハヤテの反応を見逃さなかった。
彼の鋭い視線は慈悲深さと、どこか遠い悲しみを内包していた。
「公式記録では、国境なき医師団の黒神遥人は、感染病患者の暴行により命を落とした――そう書かれている」
秋の風が二人の間を吹き抜け、ハヤテの三度笠が不安定に揺れた。
彼は慌ててそれを押さえると、初めて真正面から林を見つめた。
瞳には言いようのない疲労感が滲んでいた。
「ホームレスになって……それから探索者に」
言葉少なく、しかし彼の背後には語られない三年間の闇が広がっていた。
「見つけるのは簡単ではなかった。Sランク探索者の私でも一年かかった」
林の言葉には複雑な想いが込められていた。
相手の反応を待つように、彼は手すりから離れた。
「重慶の惨劇の後……どうして私を探したんですか?」
「Bランクのスタンピードが来る。レベルは重慶ほどではないが、十分に危険だ」
話題を変えたことで、ハヤテの問いを避けたのか、それとも本題に入ったのか。
林は手すりに再び肘をついた。
「だからこそ、お前にSランクになってほしい」
秋風が強まり、城内の木々が揺れた。
ハヤテは首を横に振った。
そのジェスチャーには苦痛が伴っていた。
「また、その話ですか……」
「Aランク昇格も私の直接要請だった。それまでCランクに留まり続けたのは意図的だったろう?」
「秘匿が条件でした」
ハヤテの指先が震えた。
爪を立てるほど強く握りしめる拳に、彼の内なる葛藤が表れていた。
「Sランクになれば、もう隠れることはできない。記者会見、公式プロフィール、メディア露出……」
林の言葉は重く、ハヤテの肩に降りかかる責任の重さを示していた。
「だから断るんです」
ハヤテの声は急に冷たくなった。
それは氷のような決意だった。
「私はもう……世間の目に触れられない。あの人が……」
言葉が途切れた。
言いかけた名前が喉に引っかかり、それ以上何も出てこない。
林は珍しく優しげな表情で彼の肩に手を置いた。
「アンナのことか?」
その名前は魔法の呪文のようにハヤテの防御を崩した。
彼の瞳に深い痛みが浮かび、一瞬だけ顔が歪んだ。
「彼女は死んだはずだ」
「私もそう思っていました……」
ハヤテの声は掠れていた。
「でも彼女が姿を現した。少なくとも……あの姿は」
林は手すりから身を離し、石畳を歩き始めた。
沈黙の後、彼は声を潜めた。
「『あいつ』との関係も複雑だからな……」
「そう、彼とは……関係を断つことはできません」
風がハヤテの前髪を掻き上げた。
帽子の下から覗いた彼の顔は、月明かりに照らされて青白く、そして『あいつ』と呼ばれる人物と驚くほど似ていた。
「預けた『銀のペンダント』の分析結果は?」
話題が変わったことで、ハヤテの表情がわずかに緩んだ。
林は軽くため息をついた。
「あの子に見せた。『真実の瞳』で見ても、特殊な力は施されていなかったそうだ」
「何? それは……」
ハヤテの眉が驚きで跳ね上がった。
「恐らくな」林は声を落とした。
「サンクティア・アンデッドをあのペンダントで召喚したと見せかけて、実は彼女自身が呼び出していたのだろう」
「どうして彼女がそんな……」
「お前を苦しめるためだ。東京タワーのMPKも、始めから阿須那殺害が目的だった」
ハヤテは唇を噛んだ。
「彼女は……」
「どんな手段を使っても、お前の心を殺したいらしいな、『あいつ』は」
林の言葉は、深い闇に沈み込むようにハヤテの心に降り積もった。
二人の間に、重い沈黙が訪れる。
城内の木々が夜風に揺れ、葉擦れの音だけが静寂を破っていた。
しばらくしてから、林が再び口を開いた。
声のトーンを意図的に明るくしているのが分かった。
「あの子といえば、昨日彼女に会ったのだろう。喜んでいただろう」
話題が変わり、ハヤテの表情がわずかに和らいだ。
林は空を見上げた。
「ええ。元気そうで安心しました」
ハヤテの声には安堵があった。
暗いトンネルを抜けたかのように。
「彼女がBランク昇格試験を受けるそうだ」
「それは早すぎます!」
ハヤテの声が上ずり、林は彼の動揺を見逃さなかった。
「守られるだけでは、守ることはできない」
林の言葉は静かだが、重みがあった。
「彼女自身が望んだことだ」
ハヤテは反論できず、沈黙した。
その時の表情は、絶対に譲れない領域に踏み込まれたような複雑さだった。
「『ご主人』と呼ぶそうだな、彼女は」
林の口元に意地悪な笑みが浮かんだ。
まるで昔からの友人をからかうような、人間味あふれる表情だった。
「あれは誤解です!」
ハヤテが慌てて言い訳した。
年下らしからぬ狼狽ぶりに、林は小さく笑った。
「保護しているだけで……」
「19歳の少女の気持ちを弄ぶなよ」
林は半分冗談、半分真剣な口調で言った。
ハヤテの言葉が途中で消え、彼らの間に無言の了解が流れた。
アンナへの思いがまだ彼の心に根強く残っていることは、二人とも知っていた。
「台湾からの孤児だった彼女を引き取った時から、特別だったんだろう? 図書館で独学する姿に、可能性を感じたと言っていたな」
林の表情が柔らかくなった。
それは師としての、あるいは父としての誇りにも似た表情だった。
「彼女は強くなる。お前の庇護だけを求める少女じゃない」
「ええ、知っています」
ハヤテの声にも、微かな誇りが混じった。
「『真実の瞳』の力は、彼女を特別な存在にするでしょう」
夕日が完全に沈み、二条城の輪郭が闇に溶け始めていた。
遠くから祇園囃子の音が風に乗って運ばれてくる。
古い記憶と新しい現実が交差する瞬間だった。
「昨日、阿須那という少年に会った」
林の言葉に、ハヤテの瞳が輝いた。
「彼は……特別な少年です」
ハヤテは言葉を選びながら続けた。
「あの『スキルブック』の力は、私の想像を超えています」
「スキルブックか」
林がその言葉を反芻した。
「彼の本当の両親が残した、ダンジョンシステムのバランスチェック用のアイテムだったな」
「はい。でも、彼はまだ気づいていません」
「自分の果たすべき役割に?」
ハヤテは三度笠を脱ぎ、夜風に髪を揺らした。
月光に照らされた彼の顔は、まるで古の彫刻のように美しく、同時に儚げだった。
「彼と私——いずれ『あいつ』に立ち向かうことになる」
「それも含めて、お前がSランクになるべき理由だ」
林の声には、これまでにない切迫感があった。
「Bランクスタンピードの中で、あの少年を守れるのか?」
沈黙の後、ハヤテは静かに、しかし確信を持って答えた。
「彼を守るというより……彼がいつか私を超える日が来るでしょう」
林は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
彼の眼には複雑な感情が浮かんでいた――驚き、懸念、そして僅かな希望。
「そろそろ行くぞ。明日からの準備がある」
「ええ」
ハヤテは三度笠を元の位置に戻し、再び股旅の口調に戻った。
変幻自在な彼の変化は、鏡の前の俳優のようだった。
「お力添え、ありがとうでござんす」
林は小さく笑い、彼の肩を力強く叩いた。
その仕草には、言葉にできない絆が表れていた。
「また会おう、遥人――いや、ハヤテ」
二人の姿は夜の闇に溶け込み、古都に新たな風が吹き始めていた。
スタンピードの脅威が迫る中、運命の歯車は静かに、しかし確実に回り続けていた。
人気のない二条城の一角で、ハヤテは一人立ち尽くしていた。
月明かりが彼を照らし、影を地面に長く伸ばす。
かつての医師としての記憶が蘇り、指先が痺れるような感覚に襲われた。
メスを握っていた手――そして彼女の手を握りしめていた手。
「アンナ……」
掠れた声は、夜風に消えていった。
その名を呼ぶ彼の表情には、決して癒えることのない痛みと、それでも前に進もうとする決意が混在していた。
二条城の石垣に、一筋の月光が冷たく照らし出されていた。




