第116話
彼の話が終わった後、周囲は静寂に包まれていた。
嵐山の竹林に夕暮れが深まり、静かに揺れる竹の葉が風にかすかな音を奏でていた。
東屋の中には、重慶の悲劇を語り終えた後の、言葉を失った沈黙だけが漂っている。
ぽつりと涙を流す志桜里。
彼女の長い銀髪が顔を覆い、その表情は見えなかったが、肩の小さな震えが彼女の感情を物語っていた。
林勇太郎は静かに彼女を見つめていた。その顔には同情と、何か言いようのない複雑な感情が浮かんでいた。
「質問があったら、何でも聞くといい」
林勇太郎の声は優しく、しかし力強かった。
その言葉に志桜里は顔を上げ、涙で濡れた頬を拭った。
「あの……魔銃について、知っていることを教えてほしいです」
彼女の声は小さく震えていたが、その瞳には強い決意の光が宿っていた。
彼女は腰に下げた魔銃「スターバースト」を手で触れ、まるでそこから勇気をもらうかのようだった。
林勇太郎は少し考え込むように目を閉じた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「全てを話すわけにはいかないが、知っていることを少しだけ」
彼はそう前置きし、久しぶりに会った友人と語り合うような穏やかな口調で話し始めた。
「魔銃は、ダンジョンから出土する素材で作られた武器であり、その中でも極めて希少なものだ。世界に100挺もないと言われている」
林勇太郎の視線が志桜里の腰に下がったスターバーストに向けられた。
「そして何より、選別性がある。通常、魔銃は使い手を選ばない。だが『スターバースト』は違う。白雪家以外の者が持とうとすると激しく抵抗する」
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
志桜里の魔銃が盗まれた時のことを思い出す。
あの盗人は確かに使いこなせていなかった気がする。
「おそらく、永人が魔銃に何らかの……言うなれば、刻印のようなものを施したのだろう。それが白雪の血を引く者だけに反応するのだ」
志桜里の目が驚きで見開かれた。
「重慶での出来事、永人の最期の一撃については先ほど話した通りだ。あの光は、普段の金色ではなく純白だった。それは通常ありえないことだ」
「純白の光……」
俺は小さく呟いた。
「君が歌うと魔銃が反応するという現象については、実は私も少し耳にしていた」
林勇太郎の言葉に、志桜里は驚いて顔を上げた。
「エリカ・スターリングからの報告だ。彼女は君が魔銃を使うところを目撃したそうだ」
「エリカさんが……? でも、どうして?」
「彼女は君のことに興味があるようだ。いや、正確には『スターバースト』に。あの魔銃には、まだ我々の理解できない神秘がある」
林勇太郎は真剣な眼差しで志桜里を見つめた。
「だが、その本当の意味はまだ解明できていない。おそらく魔銃と君、そして亡き永人との間には血の繋がり以上の絆がある。一度、魔銃を使いながら歌ってみてはどうだろう? 何か新たな可能性が見えるかもしれない」
彼の言葉には、まるで核心に触れずに何かを示唆するような響きがあった。
「魔銃には、まだ眠っている力があるかもしれない。それを引き出せるのは君だけだ」
志桜里の瞳が輝きを増した。
そこには涙の跡が残っていたが、新たな決意の光が生まれていた。
「はい!」
彼女の声には、先ほどまでの震えがなかった。
「お兄ちゃんの遺志を受け継いで……私なりに頑張ります」
林勇太郎は満足げに頷き、懐から何かを取り出した。
白い封筒だった。
「では、別れの前にこれを渡そう」
彼は俺と志桜里に、それぞれ「探索者協会 京都支部」と印刷された白い封筒を手渡した。
「これは?」
俺が尋ねると、林勇太郎は「探索者報酬だ」と答えた。
封筒を開けると、中には現金が入っていた。
ざっと数えてみると、宿泊費と交通費を少しだけ上回る程度の金額だ。
「あ、こんなに……受け取れません!」
志桜里が慌てて言った。
彼女は封筒を林勇太郎に返そうとしたが、彼は穏やかに首を振った。
「これは施しではない。君たちが貴重な情報を提供してくれたことへの、探索者としての正当な対価だ」
林勇太郎の表情には譲る気配がなかった。
「あの東京タワーダンジョンでの詩歌の件、そして今回京都に来てくれたことに対する報酬だと思ってくれ」
俺と志桜里は顔を見合わせ、感謝の言葉と共に封筒を受け取った。
「あと一つだけ」
林勇太郎が付け加えた。
「今後、何か異変に気づいたら、すぐに連絡してほしい。私の個人番号を教えておこう」
彼は俺たちにメールアドレスと電話番号を教えてくれた。
Sランク探索者の個人番号——それはかなりの信頼の証だった。
「では、また会おう」
林勇太郎は短く別れを告げ、竹林の奥へと歩いていった。
彼の背中は頼もしく、それでいて何か重いものを背負っているようにも見えた。
橘慧も「また会おう」と言って俺たちと別れ、取材のために別の場所へと向かった。
◇◇◇
「おや、戻ってきたでござんすな」
竹林から駅へ向かう途中、俺たちは道端でじっと待っていたハヤテと再会した。
三度笠とくすんだ青の道中合羽という、いつもの股旅装束に身を包んだ彼の姿は、現代の街並みの中でも不思議な存在感を放っていた。
腰の刀と共に醸し出される独特の風情は変わらないが、その穏やかな表情の奥には、以前よりも強い決意が滲んでいるようにも見えた。
「ハヤテ!」
ククルが嬉しそうに駆け寄った。
彼女の人間の姿はまだ維持されていたが、少し疲れている様子だった。
「林さんから色々と聞いてきた」
俺は重慶の話を簡単に伝えた。
ハヤテは時折小さく頷きながら、静かに耳を傾けていた。
「そうでござんすか。林さんから直接聞けて良かったでござんすな」
ハヤテの声には安堵の色が混じっていた。
「なあハヤテ、来週また京都に来ようと思うんだ」
俺は突然の思いつきを口にした。
「このまま何も準備せずに時を待つよりも、ダンジョンを探索して地ならしをしておきたい。もし……スタンピードの時に役立つかもしれないし」
俺の言葉に、ハヤテは一瞬だけ驚いたような表情を見せた後、穏やかに微笑んだ。
「いいでしょう。付き合いますよ」
彼は承諾の言葉と共に、俺の肩を軽く叩いた。
「それでは、来週の土曜日に。あっしはしばらくは京都に滞在します」
「わかった。じゃあ一週間後だな」
ハヤテの言葉に俺たちは頷き、あとは埼玉へ帰るだけとなった。
帰りの列車の中、志桜里は窓の外を静かに眺めていた。
彼女の瞳には、決意の光が宿っていた。
兄の死を知り、その遺志を受け継ぐ覚悟を決めたのだろう。
俺もまた、自分の決断について考えていた。
今日京都を訪れる前は漠然とした恐怖に支配されていたが、林勇太郎の姿や志桜里の決意を目の当たりにして、何かが変わり始めていた。
恐怖は消えていないのに、それと同時に『自分にも何かできるはずだ』という確信が、胸の奥で静かに芽吹いていたのだ。
「アスちゃん」
ククルが隣に滑り込むように座り、俺の腕を軽く叩いた。
「もう決めた?」
彼女は笑顔で尋ねた。
それは「スタンピードに参加するかどうか」という質問だと分かっていた。
「まだ……だけど」
俺は言葉を選びながら答えた。
「来週も京都に行って、もう少し考えてみるよ」
ククルは満足げに頷き、窓の外の流れる景色に目を向けた。
「アスちゃんならきっと、正しい選択ができるよ」
彼女の言葉は不思議と心に染みた。
列車は高速で埼玉へと向かっていた。
窓の外には日本の美しい景色が流れ、夕暮れの空が徐々に暗さを増していく。
あと二週間——Bランクスタンピードの発生まで、残された時間は刻一刻と減っていた。
その中で俺は何を選択し、何と向き合うのか。
その答えを探す旅は、まだ続いていた。
◇◇◇【同日夜・嵐山竹林】◇◇◇
夜の嵐山竹林。
林勇太郎がダンジョン封鎖エリアの前に立っていた。
彼の横にはレオン・クロスがいた。
「本当にあの少年に任せて大丈夫なのか?」
レオンの声には懐疑の色が混じっていた。
「彼には可能性がある」
林勇太郎は静かに答えた。
「それに……彼の『スキルブック』の能力は、私たちが予想していた以上かもしれない」
「だとしても、あんな子供にBランクスタンピードは荷が重すぎる」
レオンは不満げに言った。
だが、その表情には単なる批判ではなく、どこか心配の色も混じっていた。
「いずれにせよ、決断するのは彼自身だ」
林勇太郎はそう言って、竹林の奥を見つめた。
「……それより、あの魔銃のことが気になる」
レオンが話題を変えた。
「白雪永人の妹が持つ魔銃。あれは単なる武器ではない。エリカの報告によると、『何か』を宿しているらしい」
林勇太郎は無言で頷いた。
「しかしエリカも本当のことは言っていないだろう」
レオンの言葉に、林勇太郎はわずかに眉を寄せた。
「あの時の黒神遥人の言葉を覚えているか?」
レオンが静かに尋ねた。
「『この世界を変える鍵の一つはあの魔銃にあるかもしれない』」
林勇太郎は目を閉じ、かすかにため息をついた。
「それが何を意味するのか、そろそろ明らかにすべき時かもしれないな」
二人の姿は、次第に夜の闇に溶け込んでいった。
竹林からは、かすかに風の音だけが聞こえていた。
それは嵐の前の、不気味な静けさだった。だが、この静寂の中にも、既に運命の歯車は回り始めていた——二週間後に訪れる破滅へと向けて。
◇◇◇【埼玉・阿須那の部屋】◇◇◇
家に帰り着いた俺は、ベッドに身を投げ出した。
一日で経験したことが多すぎて、頭の整理がつかない。
京都の古都の空気、二条城での林勇太郎との面会、重慶の悲劇についての証言、志桜里の涙、そして嵐山竹林で見た夕暮れの美しさ。
全てが現実のことだとは思えないくらい、濃密な一日だった。
「おつかれさま、アスちゃん」
ククルは幽霊の姿に戻り、いつものように頭上に浮かんでいた。
人型を維持するのは相当疲れるらしい。
「ククルもお疲れ」
俺は天井を見上げながら答えた。
「今日はいろんなことがあったなあ」
「うん。でも、とっても勉強になったよ。志桜里ちゃんのお兄さんのお話とか、林さんのお話とか」
ククルの声は珍しく真剣だった。
「アスちゃんも、なんか変わった気がする」
「変わった?」
「うん。なんていうか……覚悟ができたって感じ?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
確かに今日一日で、何かが変わったような気がしていた。
京都に向かう前は、ただ恐怖に震えているだけだった。
スタンピードという言葉を聞くだけで体が硬直し、逃げ出したくなっていた。
でも今は違う。
恐怖は相変わらずあるけれど、それと同時に「やらなければならないこと」への使命感のようなものが生まれていた。
「来週また京都に行くんでしょ?」
ククルが楽しそうに言った。
「今度はダンジョン探索だね! 久しぶりのお仕事だ〜」
「ああ、そうだな」
俺は微笑んだ。
ククルの明るさに、いつも救われている。
「でも、危険な場所だから気をつけないとな」
「大丈夫だよ! アスちゃんとククルなら怖いものなし!」
彼女は拳を振り上げて元気よく言った。
その姿を見ていると、不安も和らいでくる。
携帯を手に取り、今日撮った写真を眺めた。
二条城の威厳ある姿、嵐山竹林の美しい夕景、そして志桜里の決意に満ちた表情。
どの写真も、今日という日の重要さを物語っている。
そして最後に、村山匠からのメールを読み返した。
『昨日の夜、アンナと部長が京都に向かった。おそらく彼女たちもスタンピードを知っている。気をつけて』
アンナ——詩歌を操り、今度はダンジョン部を扇動している謎の女性。
彼女もまた、京都で何かを企んでいる。
俺たちが情報収集のために京都を訪れるのと同じように、敵もまた動き始めているのだ。
「アスちゃん?」
ククルが心配そうに俺を見下ろしていた。
「なんか難しい顔してる」
「いや、大丈夫」
俺は携帯を置き、深く息を吸った。
「ただ、これから大変になりそうだなって思ってさ」
「でも、一人じゃないでしょ?」
ククルは微笑んだ。
「ハヤテもいるし、志桜里ちゃんもいるし、林さんも慧さんもいる。みんながアスちゃんを応援してくれてる」
その言葉に、胸が暖かくなった。
確かにその通りだ。最初は一人で「影のヒーロー」をやろうとしていた俺が、今では多くの仲間に囲まれている。
「そうだな……ありがとう、ククル」
「えへへ〜、どういたしまして♪」
彼女はくるりと一回転して、嬉しそうに笑った。
窓の外では、星が瞬き始めていた。
京都の空と同じ星空が、埼玉の上にも広がっている。
あと二週間——
その時、俺は「アストラル」として京都の空の下に立っているのだろうか。
それとも、安全な場所から事態を見守っているのだろうか。
まだ答えは出ていない。
でも、少なくとも今日で一つだけ確信したことがある。
どんな選択をするにせよ、俺は後悔しない道を歩みたい。
そして、もし戦うことを選ぶなら——今度こそ本物の「影のヒーロー」として。
部屋の電気を消し、ベッドに横になった。
明日からまた学校だ。日常が続いていく。
でも、その日常の裏側で、確実に何かが動き始めている。
運命の歯車は、もう止めることはできない。
俺はその歯車の一部として、自分の役割を果たす時が来るのを静かに待っていた。
夢の中で、俺は竹林を駆け抜けていた。
黒いマントを翻し、白い仮面を着けて。
そして、その夢の最後に見たのは——桜の花びらのような光と、その中で舞い上がる黒い羽、そして希望を運ぶ歌声に包まれた京都の夜空だった。