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第114話

 夕刻の嵐山竹林。

 刻一刻と沈んでいく太陽の光が竹林を橙色に染め上げていた。

 細い竹と竹のあいだを漏れる光が、まるで異世界への入り口のような幻想的な光景を作り出している。


 もしも平和な時期であれば、きっと絶景と言えるんだろうな。



 だがここは、間もなく地獄と化す場所——Bランクスタンピードの発生が予想される嵐山竹林ダンジョンだ。



「すごく綺麗だね……」


 人型の姿で歩くククルが小さく呟いた。

 白いワンピースに俺のジャケットを羽織った彼女の姿は、

 この幻想的な竹林に不思議と調和していた。

 ふわりと浮かぶようなその歩みは、人間の少女のそれとはどこか違う。


「ああ。でも、この景色があと2週間で……」


 言葉を飲み込む。

 口にしなくても、ククルには分かるだろう。

 嵐山竹林ダンジョンはすでに封鎖されていたが、スタンピードが発生すれば被害は周辺一帯に及ぶ。

 この美しい竹林も、巡礼的な聖地も、すべてが黒く染まる可能性がある。


「封鎖されてるはずなのに、意外と人が多いね」


 ククルの指摘通り、ダンジョン周辺には予想以上の人だかりができていた。

 警備の自衛隊員、探索者協会の人間、そして報道関係者。

 皆がそれぞれの目的で来ているが、その表情には共通して緊張感が漂っていた。



 二条城での打ち合わせを終え、俺たちはハヤテと別れた。

 「少し個人的な用事がある」と彼は言い、一人で西山方面へと去っていった。

 その表情には、いつもの股旅姿では見せない繊細な感情が垣間見えていたように思う。



 バスを乗り継いで嵐山竹林までやってきた俺とククルは、今、ダンジョン周辺の地形を確認していた。

 ハヤテの進言で、スタンピードが起こる場所の現地調査をしているのだ。

 ダンジョン自体は封鎖されているが、スタンピードが起これば被害は周辺にも及ぶ。

 その範囲や避難経路を頭に入れておく必要があった。




「あれ? ねえねえ、アスちゃん」


 ククルが不意に立ち止まり、小首を傾げた。


「あそこにいるの、慧さんじゃない?」


 視線の先を見ると、確かに見覚えのある姿があった。

 ネイビーのジャケットを着た男が、メモ帳を片手に竹の根元に座り込んでいる。

 煙草の煙が立ち上り、夕暮れの光に淡く輝いていた。


「ほんとだ……東京タワーでのあの事件以来だな」


 俺は彼に近づいた。



 橘慧——東京タワーダンジョンで出会ったCランクの実力を持つ探索者だ。

 表向きはDランクのディフェンダーとして活動しているが、その実力は桁違いだった。

 鋭い観察眼と冷静な判断力を持ち、MPK事件の真相を探るために裏で動いていたことを後に知った。



「慧さん」


 彼は声をかけられ、ゆっくりと顔を上げた。

 鋭い観察眼が一瞬光り、俺の姿を認めると、彼の表情がわずかに和らいだ。


「ん? 阿須那じゃないか」


 橘慧はゆっくりと立ち上がり、煙草の灰を払った。

 その仕草には余裕があり、どんな状況でも常に冷静さを保っている彼らしさが出ていた。


「まさか京都で会うとは思わなかったな。それに……」


 彼の視線がククルに向けられた。

 眉が一瞬上がり、驚きの色が浮かんだ。


「これは……打ち上げの時のあの子か?」


 慧の表情が複雑に変化する。

 あの晩、何気なくナンパした少女が、阿須那の話していた「見えない幽霊の少女」だと知った時の衝撃を思い出しているようだった。

 現実主義の彼にとって、今でも受け入れがたい事実なのだろう。


「覚えててくれましたか? ククルです!」


 ククルが無邪気に笑顔を向ける。

 人型になったククルは一般の少女のように見えるが、その正体を知っている橘慧は、彼女を見つめながら小さく頭を振った。


「まだ半分は信じていないんだがな……」


「ククルだったか。相変わらず不思議な子だな」


 慧は煙草を消し、手を差し出した。

 ククルは少し戸惑った様子だったが、すぐにその手を握り返した。

 幽霊の彼女が人型になって一般人と握手している光景は、傍から見れば何の変哲もないように見えるだろう。

 だが俺には不思議な感覚だった。


「それで、何をしてるんだ? お前らもスタンピードの下見か?」


「はい。ハヤテに勧められて」


「ハヤテ? ああ、令和の股旅か。彼は今日はいないのか?」


「別の用事があるって」


 慧はふむ、と小さく頷いた。

 彼の目には何かを見通すような鋭さがあった。


「お前らも京都のスタンピードについて来たわけか。偶然だな、俺も情報収集中でね」


 彼はポケットからメモ帳を取り出した。

 表紙は使い込まれて角が擦り切れ、中はびっしりとメモで埋め尽くされていた。



 「それに……最近、嵐山でとんでもない事件があったらしい」


 慧の表情が険しくなった。


「片渕礼二って探索者の話を聞いたか? パーティーで嵐山竹林ダンジョンに潜って、仲間二人を失った。本人も重傷で、左腕を……」


 彼は言いかけて口を閉じた。


「まあ、命は取り留めたようだが。白衣の男と赤髪の少女が犯人らしいという証言もある。スタンピード前にこんな事件が起きるなんて、偶然にしては出来すぎてる」


 俺は思わず息を呑んだ。スタンピード前に、そんな凶悪な事件が起きていたなんて。


「その……犯人については何か?」


「詳細は調査中だが、どうやら外国人らしい。英国系の可能性が高いとか」


 慧は煙草に再び火をつけ、深く息を吸った。


「いずれにせよ、スタンピードと無関係とは思えない。何か大きな陰謀の一部かもしれんな」




「ところで」


 彼は少し声を落とし、ククルを見た。


「あの時は驚いたぞ。まさか本当に幽霊だったとはな。正直、今でも科学的に説明がつかないが……」


「慧さん、まだ信じてないのー? あの時霧で助けたのもククルなのにー」


 ククルが少し膨れっ面をした。


「いや、目の前にいるんだから否定はしないさ。ただ、常識が根底から覆される感覚はなかなか拭えないんだよ」


 慧は苦笑した。

 科学的思考の人間にとって、幽霊の存在を受け入れるのは大きな挑戦だったのだろう。


「Bランクスタンピード。重慶の悪夢には及ばないとはいえ、油断はできない。俺は記者として、そして探索者として、この現場を記録するつもりだ」


 彼の声には使命感と緊張が混じっていた。




「……ねえ、慧さん」


 ククルが少し遠慮がちに口を開いた。


「重慶の悪夢って、実際どんな感じだったの? 何があったのか、慧さんから聞いてみたい」


 彼女の純粋な質問に、慧の表情が一瞬だけ曇った。

 彼は深く息を吸い込み、煙草に再び火をつけた。


「重慶の悪夢か……」


 彼の声は低く、どこか遠い目をしていた。


「俺は特派員として現地にいたんだ。Aランクスタンピードなんて、いい記事になるからな」


 彼は自嘲気味に笑った。



「だが、あれは『記事』なんかじゃなかった。地獄だった」



 その一言が重く響いた。

 彼の言葉は凍てついた空気のように冷たく、そして重かった。


「聞きたいのか? 覚悟はあるか?」


 慧の瞳が真剣に俺たちを見つめている。

 俺は黙って頷いた。

 ククルも小さく頷き、彼女の白いワンピースが夕陽に紅く染まった。


「……分かった。じゃあ、あそこの休憩所で話そう」


 慧は竹林の外れにある小さな東屋を指差した。

 そこには誰もおらず、静かに話せそうだった。


「実は俺も誰かに話したいと思ってたんだ。あの悪夢を……」


 東屋に向かって歩き始めた慧の背中は、どこか疲れているように見えた。

 



 距離が近づくにつれ、東屋の中に人影が見えてきた。


「あれは……」


 俺の視線の先には、志桜里の銀髪が風になびいていた。

 そして彼女の隣には、厳格な表情の林勇太郎の姿があった。


「彼らも同じようにダンジョン周辺の調査をしているのか」


 慧がつぶやいた。


「まさか、ここで会うとは」


 林勇太郎の重厚な声が響いた。

 彼の眼差しは穏やかだったが、顔の傷が夕陽に浮かび上がり、どこか厳格な印象を与えていた。


「阿須那くん! ククルちゃんも!」


 志桜里が驚いた表情で俺たちに駆け寄ってきた。

 彼女の長い銀髪が風になびいて、まるで水銀の流れのように輝いていた。


「林さん、そして……白雪志桜里さんですね」


 橘慧が立ち上がって一礼した。


「橘慧です。ダンジョンルポライターとして活動しています」


「ああ、名前は聞いたことがある」


 林勇太郎は穏やかに頷いた。


「重慶のレポートを書いた男だな。あれは正確な記録だった。偏りのない視点が貴重だ」


「恐縮です」


 橘慧は謙虚に頭を下げた。

 しかし彼の表情には、プロとして認められた喜びが僅かに滲んでいた。


「ちょうど話をしようとしていたところです。重慶の悪夢について」


 橘慧は俺たちを見渡した。


「この子たちにも知っておいてもらいたい。もし彼らが京都のスタンピードに関わるなら」


 林勇太郎は少し考え込むような表情をしたが、やがて静かに頷いた。


「そうだな。重慶の記憶は辛いが、伝えるべきだろう」


 彼の視線が志桜里に向けられた。


「白雪君も……兄の活躍を聞く覚悟はあるか?」


 志桜里の顔が一瞬こわばったが、すぐに決意に満ちた表情に変わった。


「はい。聞かせてください」




 そして俺たちは、東屋の中で輪になって座った。

 夕暮れの光が徐々に弱まり、周囲が青みがかった闇に包まれ始めていた。

 遠くでは、帰宅を促す自衛隊員の声が聞こえる。


「私からは第一波と第二波の様子を中心に話そう」


 橘慧がポケットからメモ帳を取り出した。

 そのページは細かい文字で埋め尽くされていた。


「そして私は」


 林勇太郎が静かに言った。


「第三波以降、特に白雪永人との関わりについて話すことにしよう」


 彼らの言葉に、志桜里の手が小刻みに震えた。

 彼女の表情には、期待と不安が入り混じっていた。


 橘慧は深く息を吸い込み、メモ帳を開いた。

 彼の表情が一瞬で変わる。

 記者としての職業的な顔つきに。


「では始めよう。重慶のスタンピード——Aランクの悪夢を」

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