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第108話

 血のように赤く染まった夕陽が街並みを覆い、長い影を引き伸ばしていた。

 俺は足を引きずるように歩きながら、頭の中で今日の出来事を反芻していた。

 村山の震える声、アンナという謎の女性、そして何より——京都で起きるであろうBランクスタンピード。

 その言葉を思い浮かべるだけで、喉の奥が乾いていく。


 心臓が早鐘を打ち、手の震えを抑えようと拳を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込み、その痛みだけが、俺が現実の中にいることを証明していた。


「アスちゃん、ほんとに大丈夫?」


 頭上でくるくると回りながら、ククルが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。

 彼女の半透明の体が夕陽に照らされ、まるで万華鏡のように七色に輝いていた。

 この不思議な幽霊の少女の存在だけが、今の俺の混乱した心を少しだけ鎮めてくれる。


「ああ……なんとかな」

 

 口から出た言葉と裏腹に、胸の内はまるで嵐の中にいるようだった。


 住宅街の小さな公園を通り過ぎる。

 遊具に腰掛けた小学生たちが、缶ジュースを回し飲みしながら楽しそうに笑い合っている。

 ランドセルを放り出し、制服の襟元をはだけさせる無邪気な姿。


 そんな日常風景を、俺は3週間後も同じように見ることができるだろうか?

 夕焼け空の下で、自分がもしかしたら帰ってこないかもしれない未来を想像すると、足がすくんだ。

 スタンピードの恐怖もさることながら、この平和な風景から遠く離れた戦場に向かう現実が、ずしりと胸に重くのしかかってくる。




 角を曲がったその瞬間、聞き慣れた声が俺を呼び止めた。


「探したよ、阿須那」


 振り返ると、ボロボロのダウンコートを着たホームレス姿のハヤテが立っていた。

 いつもの三度笠と股旅姿ではなく、現代の路上生活者として正体を隠した彼は、どこか儚げで、それでいて強い意志を秘めた雰囲気を漂わせていた。


「ハ、ハヤテ!? どうしてここに?」


 周囲を見回し、誰も見ていないことを確認する。

 頭上でククルが小さな悲鳴を上げ、「出た! 二刀流! 昼はホームレス、夜は股旅の……」と無駄にテンションが上がっていた。


「少し話がある」


 彼の視線がふと辺りを見回し、「少し歩かないか」と静かに促した。

 その眼差しには何か切迫したものがあったような気がする。


 ハヤテの隣を歩きながら、彼が何を話し始めるのか見当もつかなかった。

 住宅街から離れ、小さな川沿いの遊歩道に入り、人気のない場所まで来ると、彼は立ち止まった。


 川面に映る夕焼けが揺らめいていた。

 生き物のように。

 血のような赤さが不吉な予感を掻き立てる。




「京都へ行くかどうか、決めかねているんだろう?」


 突然の言葉に、俺は足を止めた。

 川の流れる音だけが静かに響く。

 風が枯れ葉を巻き上げ、二人の間を通り過ぎていった。


「……どうして分かったんだ?」


「君は分かりやすいからね」


 ハヤテの口元がわずかに緩んだ。

 それは皮肉でも嘲笑でもなく、理解を示す穏やかな表情だった。


「エリカにはあんなに堂々と『行く』と答えたのに、今、怖くて震えているのが見て取れる。自分でも不甲斐ないと思っているんじゃないか?」


 図星だった。

 まるで胸の奥底まで見透かされたように、言葉が詰まる。

 「アストラル」として堂々と答えた言葉と裏腹に、鈴倉阿須那はずっと恐怖に震えていた。


 膝が笑い、呼吸が浅くなる。

 すでに何度もこの状態になっていた。


「……情けないよな、俺。自分でも恥ずかしいと思うんだ」


 俺は両手で顔を覆った。

 もはや中二病のコスプレなんかじゃない。

 これは本物の恐怖だ。重慶の悪夢。9,800人以上の死者。街全体が黒く染まり、人々が次々と倒れていく光景が、眠れない夜に幾度となく脳裏に浮かんでいた。


 ハヤテは静かに川の流れを見つめながら言った。


「怖くないなどと思う方が愚かだと思うよ」


 冷たい風がボロボロのコートを揺らした。

 彼の横顔に夕陽が反射し、奇妙な美しさを醸し出している。


「Bランクスタンピード、重慶ほどではないにしても、恐ろしいものだ。震えない方がおかしい」


「でも、お前は怖くないだろ?」


 言いながら、自分の弱さが惨めに思えた。

 英雄的な探索者と比べるべきでもない。


 ハヤテはゆっくりと首を横に振った。


「怖いよ。とても」


 その意外な言葉に驚いて顔を上げると、彼の目には確かな恐怖の色が浮かんでいた。

 帽子の下から覗く目は、強さの中に不安を宿している。

 昨日まで気づかなかったのは、自分の恐怖で目が曇っていたせいなのかもしれない。


「だからこそ、無理に決断を迫るつもりはない」


 ハヤテは意外な提案をした。



「行くかどうかは"行ってから"決めればいいんだ」



「え?」


 意外な言葉に、俺は思わず聞き返した。

 頭上でククルも「どういうこと?」と首を傾げている。

 その半透明の髪が宙で揺れた。


「まず京都へ行って、状況を確認する。そして、自分の目で見て、自分の力で判断するんだ」


 彼の声には思いがけない優しさがあった。

 これまであまり見せなかった一面だ。


「あと、林勇太郎と連絡を取った。二条城で会見できるよう手配している」


「林勇太郎!?」


 俺は思わず声を上げ、あたりを見回した。

 その名前を口にするだけでも、心が高鳴る。

 

 日本唯一のSランク探索者。

 重慶から生還した伝説の男。

 あの「零式」と呼ばれる特殊部隊の指揮官。


「ああ。京都の現状と、スタンピードへの対策について直接話を聞けるだろう。それを聞いてから、参加するかどうか決めればいい」


 ハヤテの提案は、まるで俺の肩から重荷を取り除くようだった。

 今すぐ決断する必要はない。

 まずは情報を集め、自分の目で確かめる——。


「行ってみよう……か」


 自分でも意外な気持ちの軽さに驚いた。

 昨日からずっと押し潰されそうな重圧が、少しだけ和らいだような気がした。


 俺の言葉に、ククルが嬉しそうに宙で一回転した。


「そうだね! まずは見に行こう、アスちゃん! 結局それしかないよね!」


 ハヤテは満足げに頷いた。


「16日の日曜日に行こう。一緒に行った方がいいだろう」


「どうやって京都まで行くんだ?」


「埼玉鉄道博物館ダンジョンの2層からだ」


「え? 鉄道博物館がダンジョンだったの?」


 ククルが目を丸くして、宙でくるくると回りながら興味津々で首を傾げた。

 その動きは、彼女が真剣に疑問に思うとき特有のものだ。


「Eランクダンジョンの2層に出現するSL電車でワープ移動できる。大宮から京都までは約30,000円だが」


「3万!?」


 思わず声が裏返った。

 高校生の俺には大金だ。

 今までダンジョンで稼いだ貯金を崩さないといけない。

 それはつまり、ククルへのお菓子代や漫画代が削られることを意味するが……今はそれどころじゃない。


「僕が半分出そう」


 ハヤテがさらりと言った。

 その言葉にククルが「えっ!?」と口をぽかんと開けた。


「え、いや、そんな……お前にそこまでしてもらうわけには」


「遠慮しなくていい。これも一つの任務だと思ってくれ」


 ハヤテの声に断る余地はなかった。

 そして俺も正直なところ、その申し出に胸の奥で安堵していた。


「じゃあ……お願いします」


 俺が頭を下げると、彼は小さく頷いた。


 そのとき、川面に映る夕日がちょうど消えかけ、辺りが青い闇に包まれ始めていた。

 街灯が一つ、また一つと灯り始める。

 まるで星が夜空に浮かび上がるように。


「最後に一つ」


 ハヤテの声が低く響いた。


「京都での情報収集、それだけが目的だと忘れないでくれ。危険は冒さない。状況が悪ければ、すぐに帰ってくる。それでいいんだ」


 その言葉に、安堵の息が漏れた。

 そうだ、まずは情報収集。

 今の段階では戦うと決めたわけではない。

 そう考えるだけで、肩の力が抜けていくのを感じた。


「分かった……ありがとう、ハヤテ」


 彼は帽子を少し持ち上げ、柔らかな表情を見せた。

 その目に宿る光は、何か深い覚悟のようにも見えた。


「それじゃあ、16日午前8時、埼玉鉄道博物館の入口で会おう」


 別れ際、ハヤテは何か言いかけて口を閉じた。

 そして、歩き出した後で振り返り、こう言った。


「もし……スタンピードの際、君が選ぶのが『逃げる』という選択肢でも、僕は決して責めたりしない」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 何かが込み上げてくる。


 彼は無言で手を上げ、夕闇の中へと歩き去っていった。

 ホームレスの後ろ姿が、徐々に街の光の中に溶け込んでいく。

 昼と夜の狭間に存在する、不思議な男。


「ハヤテって、やさしいんだね」


 ククルが肩に手を置くように浮かびながら感心したように言った。

 その指はとても冷たいはずなのに、なぜか温かさを感じた。


「ああ……本当に」




 俺たちも家路についた。

 急に空腹を感じる。

 今夜は何を食べようか。カップラーメンでいいかな。

 でも、ククルが「栄養が偏るよ!」と怒るかもしれない。


 頭の中では16日の旅のイメージが広がっていた。

 鉄道博物館、SL電車での移動、そして京都の二条城。

 林勇太郎と会うという事実だけでも、胸が高鳴る。


 もしかしたら、このまま「アストラル」として戦場へ飛び込むことになるかもしれない。

 あるいは、「逃げる」という選択をするかもしれない。


 けれど、今はまだ決める必要はない。

 まずは「行ってから」だ。


 家の扉を開けながら俺は深呼吸した。

 恐怖は消えていない。

 けれど、少しだけ心の整理がついたような気がした。


 一歩ずつでいい。

 立ち止まっても、後ずさりしても、それでいい。

 大切なのは、前を向く勇気なのかもしれない。


 部屋のドアを開け、ふと空を見上げると、星々が瞬き始めていた。

 夜空の向こうに、京都の空が繋がっている。

 そして、そこに待ち受ける未知の運命が。


 アストラル——影のヒーローとしての覚悟を、俺はまだ決めきれていない。

 だが、鈴倉阿須那として、一歩を踏み出すことはできる。


 それが今の、精一杯の勇気だった。




 ポケットに入れたスマホが震えた。

 メールだ。画面を見ると、見知らぬアドレスから。

 送信者欄には「村山匠」とある。


 内容を開き、俺は息を呑んだ。


『昨日の夜、アンナと部長が京都に向かった。おそらく彼女たちもスタンピードを知っている。気をつけて』


 京都。アンナ。そして、部長。

 三つの言葉が交錯する中、俺の心は再び闇に沈んでいった。

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