第105話
教室の窓から秋の陽射しが差し込んでいたが、俺の頭はまったく別の場所にいた。
三週間後——京都の嵐山竹林ダンジョン。
先生の声が遠くから聞こえてくるが、俺の耳には9,800人以上の死者という数字だけが響いていた。
重慶の悪夢。
エリカとレオンから聞いた話は、夜も眠れないほどの恐怖を俺の脳裏に植え付けた。
「次に、この方程式を解くとき、注目すべきは変数xの係数です。ここを見てください……」
数学の授業。
普段なら必死に聞いていただろう。単位を落とすわけにはいかない。
だが今、俺の心は恐怖で支配されていた。
ペンを握る指が震えていることに気づき、俺はハッとした。
ノートには途中で止まった数式と、無意識に書いていたらしい「11月30日」という文字。
思わず慌ててノートを閉じる。
「アスちゃん、全然聞いてないじゃん」
頭上で浮遊するククルが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
彼女の半透明の体が、窓からの光を通して虹色に輝いている。
「ああ、ちょっと考え事してて……」
小声で応えた俺に、ククルは頬を膨らませた。
「もーっ! こんなに大事な授業なのに! 先生、見てごらんなさい!」
彼女が突然高らかに宣言し、俺は慌てて周りを見回した。
もちろん、幽霊であるククルの声は俺にしか聞こえない。
「やめろって、変な目で見られるだろ……」
小声で制止しようとするが、ククルは聞く耳を持たない。
「これからククル特製・授業集中大作戦を開始するよ!」
そう宣言すると、ククルは教壇に向かって飛んでいった。
そして黒板にあったチョークを取り出し、俺に向かって構えた。
え、まさか——。
「秘儀、令和時代に絶滅したチョーク投げ! 実際にやったら暴行罪になるから良い子は真似しちゃだめだよ!」
(待て待て! 洒落になってないだろそれ!)
俺は思わず身構えるが、ククルが投げたチョークは俺から大きく外れて、後ろの壁にぶつかった。
「あれ? 今音しなかったか?」「後ろにあるチョークが落ちてきたみたい」「なんであんなところにあるんだ?」「誰か置いてったんじゃないの?」
俺以外の生徒がざわつき始めたが、そこまで疑問に思わなかったせいか、すぐに静かになった。
慌てる俺に、ククルはニヤリと笑うだけ。
それだけで俺の心臓はバクバクと高鳴った。
「冗談だよー。でもほら、これで授業に集中できたでしょ?」
ククルは悪戯っぽく微笑み、教壇から戻ってきた。
確かに、彼女のおかげで頭の中がスッキリとしたような気がする。
「鈴倉くん、質問があります?」
突然、先生の声が俺に向けられ、クラス全員の視線が一気に集まった。
どうやら、ククルとの小声のやり取りが目立ってしまったらしい。
「あ、いえ、その……」
俺が言葉に詰まると、ククルが俺の耳元で囁いた。
「x²の係数が0になるからそこに注目するって言ったよ」
「あ、はい! x²の係数がゼロになるのが重要ですよね」
先生は少し意外そうな表情をしたが、満足げに頷いた。
「その通り。では鈴倉くん、次の式を解いてみてください」
黒板に新しい問題が書かれ、クラスメイトの視線が痛い。
俺はククルに感謝しながら、問題に向き合った。
数式を解き始めると、不思議と頭がクリアになっていくのを感じた。
スタンピードの恐怖、京都での戦い——それらは一時的に脇に置かれ、目の前の問題に集中できた。
授業が終わると同時に、ククルは満足そうに胸を張った。
「アスちゃん、どう? ちょっとは気が紛れた?」
「ああ、ありがとう」
俺は静かに微笑んだ。
彼女の存在が、時に俺の支えになっていることを改めて感じた。
「でも、スタンピードのことばっかり考えてちゃダメだよ」
ククルの表情が真剣になる。
「何が起きるかもわからないのに、今から恐れてたって仕方ないじゃん。それよりも、知れることを知って、できることをやるしかないんだよ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
いつもはふわふわしたククルが、こんなにしっかりとした考えを持っているとは。
「そうだな……」
俺は立ち上がり、バッグを持った。
そういえば、図書室でもA級スタンピードの本があったことを思い出す。
「ククル、図書室に行ってみようか」
「え? 何しに?」
「ちょっと、気になることがあるんだ」
教室を出る前に、俺は窓の外を見た。
校庭には部活動に向かう生徒たちの姿。日常の風景が広がっている。
この平和な光景がいつまで続くのか、誰にも分からない。
だからこそ、知る必要があった。
真実を、そして自分に何ができるのかを。
「行こう、ククル」
廊下を歩きながら、俺は決意を新たにした。
恐怖と戦うための第一歩は、敵を知ることだ。
放課後の図書室へ向かう足取りが、少し軽くなった気がした。
◇◇◇
放課後の図書室は夕陽に染まり、静寂が支配していた。
俺は本棚の前で立ち尽くしていた。
指先が微かに震え、背筋に冷たいものが走るのを感じる。
「重慶の悪夢——Aランクスタンピード生存記録」
表紙には、崩壊した都市の写真が印刷されていた。
灰色の瓦礫。折れ曲がった鉄骨。そして黒く染まった空。
エリカたちから聞いた悪夢のような光景が、写真でも確かに存在していた。
著者名に目がとまる。
「橘慧」
その名前を見た瞬間、東京タワーダンジョンでの記憶が鮮明によみがえった。
鋭い観察眼を持ち、冷静に状況を分析していた男。
あいつが、まさかA級スタンピードの生存者だったとは。
「橘慧……まさかあいつが」
手が勝手に動き、本を手に取っていた。カバーの裏には著者プロフィールがあった。
『橘慧:32歳。ダンジョンルポライター。重慶A級スタンピード生存者。現在は東京大学大学院メディア研究科 客員研究員として、探索者活動と執筆活動を続けている』
重慶A級スタンピード生存者——その言葉の重みに、言葉を失った。
エリカとレオンの話では、S級探索者ですら数名しか生き残らなかった恐怖の中を、あの橘慧が生き延びたというのか。
「ちょっと、借りちゃおうかな」
俺が低く呟いたその時、ピシャリと後ろから本棚が閉じる音がした。
振り返ると、小柄な少女が立っていた。
「すっごく良い本よ、それ」
黒縁眼鏡の図書委員だった。小さな体に似合わぬ張りのある声が特徴的だ。
「え? ああ、そうなの?」
「読んだことあるわよ。橘慧さんの文章、すごくリアルで、まるでその場にいるみたいな錯覚に陥るの」
彼女は本棚の整理をしながら話を続けた。
その手は小さいのに、重たそうな本をテキパキと並べていく。
「そっか」
彼女の言葉を聞きながら、東京タワーダンジョンでの出来事を思い出していた。
橘慧は確かに何か隠していた。
パーティーメンバーの行動を細かく観察し、詩花のMPK事件にも冷静に対応していた。
「あなた、重慶のスタンピードに興味あるの?」
「ああ……ちょっとね」
図書委員は首を傾げて俺を見つめた。
瞳の奥に好奇心が燃えているのがわかる。
「そう。でもね、あの本、実はかなり論争を呼んだ本なのよ」
「論争?」
「著者の橘慧さんが記述した内容と、公式発表された記録に食い違いがあるらしいの。特に『崩壊の帝王』についての描写が」
俺の背筋が震えた。
崩壊の帝王——エリカたちの口から語られた最恐のモンスター。
SSランクボスモンスターの名前を聞くだけで、体が緊張する。
「どういう食い違い?」
図書委員は周囲を見回すと、少し声を落とした。
「官報では『崩壊の帝王』はS級探索者たちによって完全に倒されたとされているけど、橘慧さんの記述だと『一時的に退散させた』だけなんだって」
それは……俺がエリカとレオンから聞いた話と近いかもしれない。
彼らも完全に倒したとは言っていなかった気がする。
「へえ」
「それに、『崩壊の帝王』の外見についても官報とは微妙に違う描写がされてるの。橘慧さんは頭部に浮かぶ『人の顔』について言及しているけど、公式記録にはそんな記述はないのよ」
人の顔……そんな話はエリカたちからも聞いていなかった。
いや、もしかしたら言いかけて止めたのかもしれない。
あのとき、エリカとレオンの間に一瞬の緊張が走ったことを思い出す。
「なんか色々と隠してる気がするわよね、公式側も」
「隠してる?」
「だって、死者数だって公式発表は9,800人くらいなのに、橘慧さんの著書では『少なくとも12,000人以上』って書いてあるもん」
俺は息を呑んだ。
12,000人以上の命が失われたというのか。
その数字を想像するだけで、めまいがしそうだった。
「でも、なんで公式側がそんな情報を隠す必要があるんだろう?」
「パニックを避けるため? 探索者協会への信頼を保つため? さあ、理由は色々考えられるけど」
彼女は本を棚に戻しながら続けた。
「それに、黒い物質の正体についても橘慧さんは踏み込んだ記述をしているわよ」
「黒い物質?」
エリカたちから聞いた「黒い水たまり」のことだろうか。
モンスターが崩れると黒い粒子となって消え、地面に黒い水たまりが残るという話だった。
「そう、モンスターから滴り落ちる黒い液体。橘慧さんはこれを『侵食物質』と呼んで、『人工的に生成された可能性』まで示唆しているのよ」
人工的に——霞染鏡蟲の出現、先日のスタンピード、そして重慶の悪夢。
これらが全て意図的に引き起こされたものだとしたら……。
想像するだけで寒気がする。
「人工的ってことは、誰かがわざとスタンピードを起こしてるって言いたいわけ?」
「そうとも取れるわね」
図書委員は真剣な表情で頷いた。
「だからこそ、この本は発売されてすぐに探索者協会から批判を受けたの」
図書館の静寂の中、その言葉が不気味に響いた。
「借りていくの?」
図書委員の声に我に返り、俺は本を手に取った。
「ああ、借りていく」
蔵書カードを抜き取り、貸出手続きをする。
心臓の鼓動が早まるのを感じた。
エリカたちの話と橘慧の著書を比較することで、何か新たな真実が見えてくるかもしれない。
俺は図書委員にお礼を言い、図書室を後にした。
廊下に出ると、窓から差し込む夕陽が床に長い影を落としていた。
放課後の校舎は静かで、自分の足音だけが響く。
バッグに本を入れた瞬間、不思議と重みを感じた。
それは単なる紙の重さではなく、真実の重み、責任の重みのように感じられた。
エリカとレオンから受け取った【盗難防止】のスキルカードが胸ポケットで微かに暖かくなったような気がした。
不意に、後頭部に冷たい風を感じた。
振り返ると、誰もいない。
だが、見られているような奇妙な感覚が消えない。
「やっぱり……」
俺は首を横に振って、そんな考えを振り払おうとした。
被害妄想だろう。
エリカたちの話を聞いてから、俺はずっと怯えているのかもしれない。
そう言い聞かせて歩き出したその時。
ふと足元に何かが落ちているのに気づいた。
屈んで拾い上げると、それは一枚の写真だった。
重慶の街並み——崩壊する前の美しい夜景。
その裏には赤インクで手書きされた一行のメッセージ。
『真実は時に人を殺す』
一瞬、呼吸が止まった。
文字が滲んで見える。
それは単なるインクの色のせいではなく、恐怖で視界がぼやけたからだと気づくまでに数秒かかった。
背筋に冷たいものが走った。
一体誰が……?
辺りを見回すが、夕暮れの廊下には誰の姿も見えない。
だが確かに、誰かが俺を見ていた。
誰かが俺の行動を監視していたのだ。
バッグの中の本が、急に重たく感じられた。
「あっ、アスちゃーん!」
後ろから明るい声が聞こえ、振り返るとククルが廊下の端から飛んできた。
彼女の半透明の体が夕陽に照らされて、虹色に輝いていた。
「どうしたの? そんな怖い顔して」
ククルが俺の顔を覗き込んでいる。
「ちょっと気になることがあってさ」
俺は写真をポケットに滑り込ませた。
真実は時に人を殺す——その言葉の意味を考えつつ、足早に校舎を後にした。
(中二病の俺ならこんな展開、妄想でワクワクしていたはずなのに……)
実際に直面すると、ワクワクどころか寒気しか感じない。
真実を追い求める旅は、時に危険を伴う。
だが、それでも俺は知る必要があった。
重慶の悪夢の真相を、そして3週間後に京都で起きるであろうBランクスタンピードの謎を。
空は徐々に暗さを増し、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
まるで闇に抗うように。