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第104話

 高層ホテルの静謐な廊下に、俺たちの足音だけが空虚に響いていた。

 エレベーターへと向かう背中に、あの恐ろしい物語の重みが圧し掛かる。

 「重慶の悪夢」——その言葉だけで、今なお喉が渇くような恐怖が蘇る。


「阿須那さん、お待ちになって」


 背後から響いたエリカの声に、俺は足を止めた。

 振り返ると、赤褐色の髪をなびかせた彼女が、優雅な足取りで近づいてきていた。

 その指先には、微かに輝きを放つカードが握られていた。


「ここまでお話を聞いてくれたお礼ですわ。どうぞ受け取ってくださいな」


 差し出された手のひらに、スキルカードが青白く光を放っていた。

 カードの表面に浮かび上がる紋様は、高度な魔術の痕跡を示している。


「これは……?」


 言葉が詰まる。

 あまりの価値に、瞬きを忘れそうになった。

 同時に、胸の奥に疑問が湧き上がる。

 なぜエリカは、まだ何の実績もない俺にこれほどの価値あるものを?


「【盗難防止】ですわ。以前志桜里さんから聞いておりましたの。あなたは是非とも使うべきものですから」


 エリカの声には、単なる好意を超えた何かが混じっていた。

 それは期待だろうか、それとも——使命感?


「で、でもこれ……滅茶苦茶高いやつじゃないですか」


 俺の知る限り、このスキルカードの価格は少なくとも100万円越えするもの。

 高校生の俺にとって、たどり着けない領域の代物だった。


「お気にならさず」


 エリカは細い指で優雅に髪を耳にかけた。


「私にとってはそこまで痛手ではありませんので」


 さすがSランク探索者——そう呟きかけた俺をエリカの声が遮った


「阿須那さん。忘れないでください」


 彼女の碧眼は静かな炎を宿していた。


「あなたがどのような選択をしようと私たちは決して責めませんし、背中を押させていただきますわ」


 その言葉には、「逃げてもいい」という許しと、「来てほしい」という願いが同居していた。


「エリカさん……」


 返す言葉が見つからなかった。

 隣でククルがふわりと浮かび、俺の肩に触れた。


「でももし、あなたがBランクスタンピード鎮圧に協力していただけるのなら……」


 エリカの唇が微かに震えた。


「これほど心強いことはありませんわ」


 その背後に立つレオンは、スーツの袖口を無意識に弄りながら、鋭い琥珀色の瞳で俺を観察していた。

 昨日まで命を賭けて戦った相手とは思えないほどに冷静だ——いや、むしろその冷静さこそが彼らの「覚悟」なのかもしれない。


「それでは、またいつかお会いしましょう」


 別れの言葉には、「京都で」という言外の意味が込められていた。


「はい。……ありがとうございます」


 スキルカードを胸ポケットに滑り込ませながら、俺は頭を下げた。

 重いカードが心臓に触れる感触と共に、「選ばれた」という重圧がずっしりと胸に沈み込む。


 俺とククルはエリカたちに別れを告げ、豪華な廊下を通って帝国ホテルを後にした。

 足取りは重力が十倍になったように重く、床に足が沈み込んでいくようだった。




 ホテルを出た瞬間、朝の東京の喧騒が俺たちを飲み込んだ。

 通勤客が行き交う普通の日常——この景色がいつまで続くのだろう。


「アスちゃん、大丈夫?」


 ククルの心配そうな声が頭上から降ってきた。


「ああ……」


 答えながらも、自分でも信じられないほど声が震えていた。


 スタンピード、死者9,800人以上——その数字が頭から離れない。

 それは俺の通っている高校の全校生徒の約12倍。

 俺の住んでいる市の人口の半分以上。

 俺が知っている「みんな」が、まるごと消えた数字だった。


 京都では、それに近い惨劇が再び起きようとしている。

 そして俺は、「行く」と言ってしまった。

 中二病ヒーローのコスプレで遊んでいた子供が、本物の戦場に足を踏み入れると宣言したのだ。


 ホテルのガラスドアが閉まる音が、最後の脱出路が塞がれたように聞こえた。




 ◇◇◇




 阿須那が立ち去った帝国ホテルのスイートルームには、重い沈黙が漂っていた。


「やりすぎでは?」


 ハヤテが三度笠の陰から静かに問いかけた。


 レオンはウイスキーグラスを手に取り、琥珀色の液体を揺らした。


「お前はまだ子供だからって甘やかしすぎだよ」


 彼は窓際に立ち、東京の街並みを見下ろしながら続けた。


「下手したら今度のBランクスタンピードは『重慶の悪夢』を超える可能性すらあるんだ」


 エリカはソファに深く腰掛け、疲れた表情で目を閉じた。


「それにインタビューしてきたあの学生たちも気になりますわね」


「ああ、阿須那が自分の学校のダンジョン部だと言ってたでござんすな」


 ハヤテは部屋の中央に佇み、まるで場に溶け込まないよう意識的に距離を取っているようだった。


「インタビュー内容がスタンピードばっかりでしたのよ」


 エリカが眉をひそめた。


「まるで私たちが何をするか探ってるかのようでしたわ」


 レオンの表情が険しくなる。


「なんだそれは。たかが学生の集まりが今回のスタンピードに関与してるとでも言うつもりか?」


「……MPKの件を考えるとあり得る話でござんすな」


 詩歌もまだ年若い少女だった。

 たった一人の少女が関東圏を巻き込む大事件へと発展させた。

 ダンジョン部が引き起こすだろう騒動も決して馬鹿にできないことだとハヤテは思う。


 特に、アンナが関わっているとあれば——。




 レオンはグラスを置き、鋭い視線をハヤテに向けた。


「それにしても、お前は静かすぎたな」


「何の話でござんすか?」


 ハヤテの声には警戒感が滲んでいた。


「『重慶の悪夢』を話している時、お前は全くといってもいい程に反応しなかった」


 レオンの指先が窓ガラスをノックするように叩いた。


「……気のせいでござんすよ。あっしがその話を聞いても何も感じなかったと?」


 ハヤテの声は表情同様、三度笠の陰に隠れていた。


「違う」


 レオンの声が冷たく響いた。


「聞きなれてるかのようだったんだよ。まるで全て知っていたかのようにだ」


 沈黙が重く室内に広がる。ハヤテの手が無意識に刀の柄に触れた。


「……あっしは参加してないと言ったはずでござんすよ」


 そう——探索者としては参加してない。

 決して嘘は言っていない。


「あっしはこれで失礼させていただきます」


 ハヤテが一礼した。


「ええ、次は京都でお会いいたしましょう」


 エリカの声には疲れが滲んでいた。


「分かりました。……それでは」


 そして追及を避けるかのごとく、ハヤテは足早に去っていった。

 ドアが閉まる音が、緊張感を一気に解き放った。




「どう思う?」


 レオンがエリカに向き直った。


「参加してた可能性は高いですわね」


 エリカはゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。


「だとすれば色々不可解な点が多いですけれども」


「探索者としては間違いなく参加してないだろうな」


 レオンは考え込むように腕を組んだ。


「あいつみたいな探索者の活躍が耳に入らないはずがない」


「だとすれば一般の立場で、ですけれども」


 エリカは窓ガラスに息を吹きかけた。


「それだとこの後2~3年でSランクに並ぶ実力を身につけたことになりますわね」


「不可能だな」


 レオンは断言した。


「俺たちですらSランクになるまでに10年を要した。それでも天才的な早さだと評されたほどなのにな」


「だから謎だらけですのよ」


 エリカの指先がガラスに「H」の文字を描いた。


「それに……」


「それに?」


 エリカは言いかけて、首を振った。


「いえ、何でもありませんわ」


「……」


 レオンの顔から表情が消えた。

 彼の琥珀色の瞳に一瞬だけ過去の影が揺れ、エリカの方へと視線を向ける。

 二人の間には言葉にならない共通の記憶が流れているようだった。


 静寂がしばらく続いた後、レオンが会話の方向を変えるように口を開いた。


「なあ、エリカ。阿須那は京都に来ると思うか?」


「あら、阿須那さんはヒーローをやるって仰っておりませんでした?」


 エリカの唇が微かに笑みを形作った。


「あの震える体を見なかったわけじゃないだろ?」


 レオンはくつくつと低く笑った。


「プレッシャーに押しつぶされてるのが目に見えてるよ」


「賭け事でも始めるおつもりですの?」


 エリカの眉が優雅に持ち上がった。


「あなた逆神と言われるほどに弱いではありませんの」


「うっ……!」


 レオンは心臓を撃ち抜かれたような仕草をした。


「大体、来るに決まってますわよ。賭けにすらなりませんわよ」


 エリカは自信たっぷりに言い切った。


「随分自信たっぷりじゃないか」


 レオンが楽しげに尋ねた。


「確信できる根拠でもあるのか」


「ありますわよ」


 エリカの瞳が真剣な光を宿した。


「何故なら——」


 朝日が差し込むスイートルームで、彼女の言葉が静かに響く。


「あのハヤテとククル、そしてスキルブックに選ばれた少年ですもの」


 その言葉には、単なる期待を超えた確信が込められていた。


 まるで——すべては誰かの計画通りに進んでいるかのように。

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