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第103話

 しばらくの沈黙の後、エリカはゆっくりと顔を上げた。

 その表情は疲れていたが、どこか静かな決意を秘めているようだった。


「音もなく、廃墟は広がっていました」


 彼女の声は穏やかになっていた。まるで嵐の後の静けさのような。


「かつて活気あふれた重慶の街並みは、今や瓦礫と化した建物と焼け焦げた木々、そして粉々に砕けたコンクリートの山と化していました。空には灰色の雲が漂い、太陽の光さえ遮っていました」


「鼻をつく焦げた匂いと埃っぽい空気が、死の静寂と相まって、まるで終末後の世界を思わせました」


「その中を、一人の男が重い足取りで歩いていました」


「白衣——いや、かつては白かったであろう衣が、今は血で染まりボロボロになっていました。黒い髪は後ろで束ね、その鋭い目は疲労の色を滲ませながらも、何かを探すように周囲を見渡していました」


「彼の足元には、黒い液体の痕跡が点々と残されていました。その液体はすでに乾き始め、地面に黒い斑点となって残っていました」


「男は無言で瓦礫の山を乗り越え、崩れかけた建物の間を縫うように進んでいきました。その動きには医師特有の慎重さと精確さがありました」


「それもそのはず、彼は黒神遥人。国境なき医師団の一員であり、この悲劇の中で数百人の命を救ってきた男でした」


 その名前を聞いて、俺は思わず息を飲んだ。

 目の前のハヤテは微動だにせず、その表情は完全に三度笠に隠れていた。

 エリカがハヤテの方を見ることはなかったが、語っている内容が彼に向けられたメッセージのようにも感じられた。


「しかし今、彼は医師としての任務ではなく、何か別の目的を持って瓦礫の中を進んでいたのです」


「黒神の足が突然止まりました。目の前の光景に、彼の鋭い瞳が細められました」


「瓦礫の山の向こう側に、二つの人影が横たわっていました」


「『……見つけた』彼の声は疲労と緊張で少し掠れていました。急いで二人に近づき、膝をついて状態を確認します」


 エリカは語り続けた。

 彼女の声には、まるで彼女自身が目撃したかのような生々しさがあった。


「一人は私。もう一人は琥珀色の瞳を持つ男性、レオン・クロス。今はボロボロの姿で、かろうじて息をしているだけでした」


「私の体は至る所に火傷を負っており、左腕は不自然な角度で折れていました。レオンはさらに深刻な状態で、胸部に大きな裂傷があり、大量の出血があった形跡が見られました」


「『まだ間に合う……』黒神は素早く医療バッグを開き、応急処置の準備を始めました。彼の手は疲労にもかかわらず、的確に動いていました」


「『二人とも、意識はあるか?』かすかな呻き声がレオンの口から漏れました。私は瞼がわずかに動くだけでした」


「『崩壊の帝王は……』私は掠れた声がかろうじて出ました。『倒した……みたいだな』レオンの返答は途切れ途切れでした」


「『こうして会えるとは……思わなかった』黒神の声は静かでしたが、どこか感慨深げでした」


「『あなたは……』私は目を微かに開け、黒神を見上げました。『国境なき医師団の黒神だ。動くな、二人とも重傷を負っている』彼は手早く止血を施し、応急処置を続けながら言いました」


「『なぜ……ここに?』レオンの疑問の声」


「『偶然ではない。君達のような希少な存在を放っておくわけにはいかない』黒神の言葉には複雑な意味が込められていましたが、今はそれを説明する時間はありませんでした」


「『私たち以外の生存者は……?』私は苦痛に顔をゆがめながら尋ねました。黒神の表情が一瞬曇りました。『まだ把握できていない。だが、多くの人間が犠牲になった』」


「『「零式」部隊は? 林勇太郎は……』レオンの問いに、黒神は短く首を振りました。『今は二人の治療が先決だ』」


「黒神の手が素早く動き、バッグから取り出した薬剤を注射器に満たしました。『これで痛みは和らぐはずだ。すぐに救助隊を呼ぶ』注射を打ち終えた黒神は、無線機を取り出し、救助要請を始めました。『Sランク探索者二名発見。重症だが生存。緊急医療支援を要請する』」


「黒神は二人にもう一度目をやりました。『二人とも、よく生き残った。だが、これからが本当の戦いだ』『何が……起きたの?』弱弱しい声になりながら私は尋ねました」


「『これは最初の嵐に過ぎない』黒神の言葉は謎めいていました。『崩壊の帝王が倒れても……終わりじゃないと?』レオンが目を細めました」


「黒神はしばらく沈黙した後、静かに言いました。『終わりではない。始まりだ』」


「その時、遠くから救助ヘリコプターの音が聞こえ始めました。黒神の表情が一瞬だけ晴れました」


「『生きろ。これからの世界には、君たちのような者が必要になる』」


「二人の傷ついた探索者の上に、ヘリコプターの明かりが落ちてきました。黒い煙の向こうから、救助の光が差し込んできたのです。黒神は立ち上がり、一歩後ろに下がりました。まるで自分の存在を消すかのように」


「『私たちを救ってくれたのね……あなたの名前を、もう一度』私は目を細めて黒神を見つめようとしました」


「しかし、救助隊員たちがヘリコプターから降りてくる中、黒神の姿はすでに瓦礫の陰に消えていました。彼が去り際に残した言葉は、風の中に溶けていきました」


「『いつか、また会おう』」




 ◇◇◇



 

 エリカの声が静かになり、物語は終わった。


 部屋に重い沈黙が落ちた。


「しかし彼との約束は叶いませんでした」


 エリカの声が、高級スイートルームの空気を切り裂いた。

 窓から差し込む朝日が彼女の赤褐色の髪を金色に染め上げ、その瞳に浮かぶ悲しみを際立たせていた。


「『重慶の悪夢』の一年後、黒神遥人は感染病の患者から暴行を受けて亡くなったといわれています」


 その言葉は、鈍い鉛のように俺の胸に沈んでいった。

 テーブルに置かれた高級紅茶のカップから立ち上る湯気が、まるで命の儚さを表すかのように揺れている。


「そんな……」


 声にならない絶望感が喉を締め付けた。

 奇跡的な生還を果たした英雄が、そんな形で命を落とすなんて。

 運命の皮肉とはこれほど残酷なものなのか。

 重慶で何千もの命を救った男が、たった一人の患者によって命を奪われるなんて——。


 重い沈黙がスイートルームを支配した。

 高層階の窓の外では、東京の街が朝の喧騒に包まれ始めていた。

 しかし、その日常の光景が、今の俺には別世界のように遠く感じられた。




「9,800名以上」


 レオンがようやく口を開いた。

 スーツ姿の彼は窓際に立ち、背を向けたまま低い声で告げた。


「これが重慶A級スタンピードの公式死亡者数だ」


 その数字を聞いて、俺の全身から血の気が引いていくのを感じた。

 たった一つの事象で、一万人近い命が奪われるなんて。

 それは災害というよりも、戦争と呼ぶべきものだった。


「重慶は現在、陳氏財団を含む国際支援により着実な復興を遂げています」


 エリカが窓の外を見つめながら静かに言った。


「ただし、スタンピード発生源となった洪崖洞ダンジョンは、安全確保のため特別管理区域に指定されています。周辺8キロメートル圏内は探索者以外の立入りが制限されており、完全な日常回復にはまだ時間を要する状況ですわ」


「8キロメートル……」


 俺は思わず呟いた。それでもかなり広い範囲だ。


「市民生活は段階的に正常化していますが」


 エリカの声に僅かな安堵が混じった。


「やはり人々の心の傷が癒えるまでには、長い年月が必要でしょうね」


 話が進むにつれて、頭の中は真っ白になっていった。

 モンスターの恐ろしさ、黒い液体の脅威、そして何よりも、それと戦うSランク探索者たちの命がけの戦いの様子。

 あまりの緊迫感に、自分の手が震えているのに気づいた。




「聞いたな」


 レオンが俺を正面から見据えた。

 琥珀色の瞳に冷たい光が宿っていた。


「A級スタンピードがどれほど凄まじいか。そして、3週間後に来るB級スタンピードがどれ程のものかも想像つくはずだ」


 言葉が出なかった。

 喉が砂漠のように渇き、心臓が鼓動を忘れそうになる。


「それでも、お前はヒーローとして立ち向かえるのか」


 その瞬間、脳裏に浮かんだのは、子供の頃に読んだ一冊の本だった。


『ドン・キホーテ』。


 騎士を夢見る老人が、風車を巨人と見間違えて突撃し、吹き飛ばされるあの話。

 当時は滑稽なお話としか思っていなかった。

 だが今、その主人公と自分が重なって見えた。


 俺は——。


 黒いマントを翻し、ありもしない敵と戦う中二病の少年。

 他人から「痛い」と嘲笑される、なりたいヒーロー像を演じていただけだったんじゃないのか。

 脳内で嘲りの声が響く。

 手のひらには冷や汗が溜まり、体の芯から冷えていくのを感じた。


「深く考えることはない。選択肢から選べばいいんだ」


 レオンは容赦なく畳みかけた。

 彼の表情には、俺を試す冷酷さと、同時に何か期待するような色が混じっていた。


「ヒーローを続けるか、潔くやめるか、それとも道化であることを受け入れた上でヒーローごっこを続けるかだ。言っとくが、どれを選んでも誰も責めは——」


「レオン」


 ハヤテが初めて口を開いた。

 三度笠の陰から覗く鋭い目がレオンを射抜いていた。

 その視線には、年長者としての威厳と、守るべき者を守ろうとする強さがあった。


「阿須那はまだ18でござんす。このようなことを背負わせるのは酷では——」


 その瞬間、俺の中で何かが切れた——いや、繋がった。


 9,800人の死を前に震えている自分。でも、だからこそ——

 これ以上同じ悲劇を繰り返させるわけにはいかない。

 たとえ俺が偽物のヒーローでも、道化でも。


「やります」


 自分の声が響いた瞬間、部屋中の空気が凍りついた。

 エリカの瞳が大きく見開かれ、レオンの表情が一瞬驚きに染まり、ハヤテの体が微かに震えた。

 ククルは半透明の手を口元に当て、息を呑んでいた。


「俺は立ち向かいますよ」


 声は震えていたが、それでも続けた。

 まるで別の誰かが俺の口を借りて話しているかのように。


「それがどれほど恐ろしいものであろうとも、俺はみんなが死ぬのを見ているだけなんて絶対に耐えられない」


「アスちゃん……」


 ククルの震える声が俺の名を呼んだ。


 静寂が数秒間流れた後、エリカが咳払いをした。




「……言い忘れておりましたが」


 彼女の声には、一瞬だけ驚きが混じっていた。


「Bランクスタンピードは3週間後の11月30日。京都の嵐山竹林ダンジョンで発生しますわ。既にイレギュラーモンスターの報告が出ています」


「京都……」


 予想外の場所に一瞬混乱した。

 東京近郊だと思っていたが、そんな遠方だったのか。


「つまりこれから守る人々は、全くお前を知らない人たちってことだ」


 レオンが皮肉めいた微笑みを浮かべながら言った。


「それでも決意は変わらないな?」


「……はい」


 その瞬間、自分の手を見た。

 震えるのを止められない指先。冷や汗に濡れた掌。

 阿須那の中の何かが必死に叫んでいた——逃げろと。


 全身に恐怖が広がっている。

 心臓は苦しいほど早く脈打ち、喉は砂を飲み込んだように乾いていた。


 本当の勇気とは何なのか。

 本当のヒーローとは何なのか。

 俺の頭の中で、仮面の下の顔が引きつっていく。


 心からの決意などではない。

 ただの虚勢、無謀な子供の自殺行為——それなのに、なぜか後に引けない自分がいた。


 その姿を、部屋の全員が見透かしていることを知りながら。

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― 新着の感想 ―
こんばんは。 本当に聞くだけでもキツい大災害でしたね…それでも「ヒーローやるのか?」と言われて継続を決意したアストラルは偉いと思います。 ただ黒神さんの最期の一件も有りますし…昔のロボットアニメ『無…
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