第102話
——最終波:崩壊の帝王——
沈黙が部屋を満たした。
エリカはテーブルに両手を置き、頭を垂れた。
その姿は、これから語る記憶があまりにも重いことを物語っていた。
レオンは窓辺に移動し、背中を向けたまま立ち尽くしていた。
彼の肩が微かに震えているのが見えた。
俺は言葉を失い、ただ呆然と座っていた。
ククルは俺の肩に寄り添い、半透明の手で俺の手を握っていた。
幽霊のその手は冷たいはずなのに、温もりが心に伝わってくるようだった。
「最終波は……『終末の王』と呼ばれる存在でした」
エリカの声が、静かに室内に響いた。
「8月19日午前0時ちょうど。時計がちょうど午前0時を指した瞬間、それは始まりました。まるで時間が選ばれたかのように、あまりにも精確に」
「ダンジョン入口が突然拡大し始めました。通常は建物の入口程度の大きさだったそれが、みるみるうちに大きくなり、やがて一つの建物全体が飲み込まれるほどになりました」
「そして、その中から『それ』が現れました」
「崩壊の帝王——SSランクボスモンスター」
エリカの声が低く沈み、その言葉だけで部屋の温度が下がったような錯覚を覚えた。
SSランクモンスター……記録に残る最高ランクのモンスターだ。
「一見、巨大な人型の姿をしていましたが、その姿は常に揺らぎ、完全に捉えることができませんでした」
彼女の声はかすかに震えていた。
「眼で見ているはずなのに脳が正確に認識できないような、現実と非現実の境界にあるような存在でした」
「全身は漆黒の物質で構成され、視線を向けるだけで目が痛むような深い闇を湛えていました。その表面には古代の文様と現代の回路パターンが混在したような紋様が浮かび上がっては消えを繰り返し、見つめていると思考そのものが掻き乱されるような錯覚を覚えました」
俺は身震いした。
その描写だけで既に恐ろしい存在だとわかる。
想像するだけで気分が悪くなりそうだった。手が震えるのを止められない。
「頭部には王冠のような突起があり、そこから七色の光が放たれていました。顔の部分には目、鼻、口といった器官はなく、代わりに宇宙の暗黒部分を思わせる虚無の窓が開いていました」
「その身長は50メートルを超え、立っているだけで周囲の建物を圧倒していました。背中からは八本の翼が生えており、その黒い翼はカラスに似ていました。翼は物理的な翼ではなく、次元を切り裂くような異質な存在で、振るたびに周囲の現実が歪んだのです」
「あれは……」
エリカは言葉に詰まり、一瞬目を閉じた。
「言葉を失いました」
「崩壊の帝王は歩き始めました。その一歩一歩が地面を震わせ、足跡には黒い液体が溜まっていきました。そして、その液体から新たな『黒いモンスター』が生まれ始めたのです」
俺は息を呑んだ。
黒い液体。あの第一波と同じものが。じゃあ、すべては最初から……。
「『警報! 警報! 未確認SSランクモンスター出現! 全員避難せよ!』」
エリカはその時の指揮所のアラームを再現するように言った。
「私たちにはもはや選択肢がありませんでした」
「残存する防衛力はほぼゼロ。市民の大半は既に避難したか、命を落としていました。残されていたのは、最後の砦として踏みとどまっていた探索者たちだけでした」
「S級探索者は当初50名いましたが、この時点で生き残っていたのはわずか5名。エリカ、レオン、そして他3名のS級探索者たち。A級以下の探索者も多くが命を落としていました」
「『最後の選択だ』」
エリカはレオンの言葉を引用した。
「『撤退するか、戦うか』」
「『戦うわ』私は躊躇いなく答えました。生き残りの確率など、もはや考える意味はありませんでした。レイラもまた、私の側に立ち、静かに頷きました。『最後まで共に』」
エリカの声に感情が溢れ、彼女は一瞬だけ顔を両手で覆った。
レオンが窓辺から振り返り、彼女の肩に手を置く。
彼の冷たい表情が一瞬だけ崩れ、そこに無言の慰めを見た気がした。
「崩壊の帝王は都市の中心部へと歩み続けていました。それは単に破壊するだけではなく、明確な目的を持っているようでした。その目的地は……重慶の中心にある塔でした」
「『あそこは電波塔』林勇太郎がそう言いました。『あれが破壊されれば、この地域の通信は完全に断たれる』」
「それは明らかに戦略的な目標でした。単なる破壊ではなく、意図を持った行動」
「私たちは崩壊の帝王に立ち向かう作戦を急いで練りました。直接的な攻撃は無駄だと分かっていました。SSランクボスモンスターは通常の攻撃では傷一つつかないほど強力です」
「『弱点を探る必要がある』レオンが言いました。『胸部の球体……あれが唯一の弱点かもしれない』」
「確かに、崩壊の帝王の胸部中央には地球を思わせる球体が埋め込まれており、そこから黒と白の粒子が交互に放出されていました」
「『作戦は一つ』林勇太郎は決断を下しました。『我々が囮になる。エリカとレオン、君たちはその間に胸部の球体を攻撃してくれ』」
「それは自殺的な作戦でした。しかし、他に選択肢はありませんでした」
「残りの探索者たちが崩壊の帝王の注意を引く中、私とレオン、そしてレイラは側面から接近しました」
レオンが窓辺から戻り、エリカの側に立った。
彼の表情には深い痛みの色が浮かんでいた。
「崩壊の帝王は想像を絶する能力を持っていました」
エリカは続けた。
「現実の物理法則そのものを一時的に書き換える『次元歪曲』。黒と白のエネルギーを操る『黒白二相』。八方を同時に見通す『八咫の目』」
「林勇太郎と他の探索者たちが正面から挑むと、崩壊の帝王は次元歪曲を使って空間そのものを歪め、彼らの攻撃をことごとく無効化しました」
「『くっ……』林勇太郎は傷を負いながらも立ち続けました。『まだだ……もう少し時間を稼ぐ……』彼の『八方支援陣』はかろうじて機能していましたが、展開範囲は狭まり、効果も弱まっていました」
「レオンは『カオスセオリー』を最大限に発動させ、崩壊の帝王の周囲の空間に干渉し始めました。重力、光速、時間の流れ……あらゆる物理法則を歪めることで、モンスターの動きを鈍らせようとしました」
「私は『量子跳躍』で崩壊の帝王の背後へと移動し、背中の翼を狙いました。レイラは『フロストゾーン』を最大限に発動させ、崩壊の帝王の足元を凍結させようとしました」
「しかし、それらの努力もほとんど効果がありませんでした」
エリカの声が震えた。
語りながらも、彼女の指先が微かに震えているのが見てとれた。
この記憶は今でも彼女の中で生々しく残っているのだろう。
「崩壊の帝王は突然、全身から強烈なエネルギー波を放出しました。それは『虚無放射』と呼ばれる特殊な攻撃でした」
「このエネルギー波に晒された探索者たちは、物理的なダメージではなく、『存在の希薄化』という特殊な状態に陥りました。彼らの体が透明になっていき、やがて消えてしまったのです」
「瞬く間に、林勇太郎を含む多くの探索者が姿を消しました」
エリカの声がかすれた。
「ただし——」
彼女は一瞬言葉を区切った。
「林勇太郎だけは完全に消失する寸前、何らかの特殊能力を発動させたようでした。彼の体が一瞬だけ金色に光ったのを覚えています。それが彼を救ったのかもしれません」
苦しい記憶を思い出しているのだろう。
「『みんな……』叫び声が喉から出ようとしましたが、声にならなかった。私たちは絶望的な状況に追い込まれていました」
「レオンの『カオスセオリー』も限界に達し、私の『量子跳躍』も回数が限られていました。レイラは『フロストゾーン』を発動し続けるため、体力を使い果たしつつありました」
「そして、崩壊の帝王は次の目標を定めました。私たちです」
「『後退!』レオンが叫びました。しかし、逃げる場所はありませんでした。崩壊の帝王は『次元歪曲』で空間そのものを歪め、私たちの退路を断っていました」
「『まだ……終わりじゃない』私は歯を食いしばりました」
「残された選択肢は一つ。崩壊の帝王の胸部にある球体を直接攻撃するしかありませんでした」
「『レオン、レイラ……最後のチャンスよ』」
「私たちは力を合わせることにしました。レオンは『カオスセオリー』の最後の力を振り絞り、崩壊の帝王の周囲の空間を最大限に歪めました。これにより、崩壊の帝王の『次元歪曲』の効果が一時的に弱まりました」
「『今だ!』私は『量子跳躍』の最後の力を使い、崩壊の帝王の胸部に向かって跳びました。レイラも同時に動き、『フロストゾーン』を最大限に展開して崩壊の帝王の動きを鈍らせました」
「しかし、それも十分ではありませんでした」
エリカの声が低くなり、彼女の目に涙が浮かんだ。
「崩壊の帝王は『八咫の目』で私たちの動きを見通し、『黒白二相』のエネルギーを放出しました。それは目にも留まらぬ速さで私に向かって飛んできました」
エリカの声が途切れ、一瞬の沈黙が部屋を満たした。
彼女はゆっくりと視線を上げ、まるで過去の光景を彼方に見るかのように虚空を見つめた。
「『エリカ!』レイラの叫び声が聞こえた瞬間、彼女の身体が私の前に飛び出しました。黒と白のエネルギーが彼女の体を貫きました」
「一瞬の静寂——そして彼女の体が宙に浮かび上がりました」
「レイラ!」
エリカの声が震え、彼女の頬に一筋の涙が伝った。
俺は息をのみ、彼女の痛みがまるで自分のことのように胸に迫ってきた。
レイラの名前を呼ぶ彼女の声には、これまで隠していた深い感情が溢れ出ていた。
「時間が止まったように感じました。彼女の身体が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと落下していきます。彼女の手が、最後に私に向かって伸びていました」
「『行って……エリカ……』彼女の声は風のように弱く、しかし私の心に刃のように突き刺さりました。青緑色の瞳から光が失われていく様子が、すべてを鮮明に見えました。そして彼女は微笑んだ——最後の、私だけに向けた微笑み」
「レイラアアアア!」
エリカの声が震え、テーブルに置いた手が拳を握りしめていた。
彼女の目から落ちる涙は、紅茶のカップに静かに滴り落ちた。
「私の叫びは夜空に吸い込まれました。悲しみと怒りが入り混じり、私の中で何かが壊れました」
「いや、同時に何かが生まれました」
「『もう……許さない』」
「私の体が光り始めました。それは『量子跳躍』とは異なる、未知の力でした」
「同時に、レオンの体からも異様な光が発せられていました。彼の『カオスセオリー』が未知の領域に踏み込んだかのようでした」
「『エリカ……俺たちに残された力を……使い切ろう』私たちは無言で頷きました」
「レオンの『カオスセオリー』が崩壊の帝王の周囲の空間を極限まで歪め、私の未知の力が崩壊の帝王の胸部の球体を直撃しました」
「その瞬間、眩い光が世界を覆いました」
「崩壊の帝王が悲鳴を上げました。それは人間の言葉ではなく、宇宙そのものが歪むような音でした」
「その胸部の球体にヒビが入り、そこから白い光が漏れ始めました。その光は次第に強くなり、崩壊の帝王の体を内側から照らし出しました」
「『もう一度!』私たちは再び攻撃を仕掛けました。この時、私の体からは白い光が、レオンの体からは黒い光が発せられていました。それらは互いに呼応するかのように渦を巻き、崩壊の帝王の胸部に向かって飛んでいきました」
「崩壊の帝王は最後の抵抗を試みました。『虚無放射』を最大出力で放出したのです」
「私たちの体が透明になり始めました。存在そのものが希薄化していく感覚。しかし、私たちは諦めませんでした」
「『今だ!』」
「私たちの攻撃が崩壊の帝王の胸部の球体を貫いた瞬間、世界が白く染まりました」
「次に目が覚めたとき、私たちは廃墟となった重慶の街に横たわっていました。体中が痛み、意識はかろうじて保たれていました」
「崩壊の帝王の姿はなかった」
「勝ったのか? それとも——」
エリカの声が途切れ、彼女はテーブルに両手をついて頭を下げた。
レオンが再び彼女の肩に手を置き、無言で力を与えているようだった。
俺はただ呆然としていた。
恐怖と畏怖と、そして何よりも強いショックが全身を支配していた。
アストラルとしての活動、中二病のヒーロー——それらがいかに子供じみた空想だったのかを思い知らされた気がした。