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第100話

 ——第三波:影の軍勢——




「第三波は『影の軍勢』と呼ばれるものでした」


 エリカの声が再び部屋に響いた。

 空気が重く、まるで酸素が不足しているような圧迫感が胸に広がる。


「8月17日午後11時5分。突然、部屋の照明が点滅し始め、やがて完全に消えました」


 彼女の声は一見冷静だったが、その瞳には今も残る恐怖の色が浮かんでいた。


「窓の外に目をやると、街全体が徐々に闇に沈みつつあるのが見えました。それは単なる停電ではありませんでした。通りの明かりが一つずつ消え、車のヘッドライトも弱まり、やがて完全に闇が街を飲み込んでいきました」


 俺は思わず身震いした。

 闇は誰もが恐れる原初の恐怖だ。その暗闇に何かが潜んでいるとなれば、なおさら怖ろしい。


「街に完全な闇が広がったとき、初めてそれらの姿が見えました」


 エリカの声が低く沈む。



「『影の軍勢』——蠢く黒い影が、街の闇の中を這い回るように広がっていました」


 彼女は半液体・半気体の存在で、墨汁のような濃い黒色の体表面から常に黒い霧を発していたと説明した。

 触れたものを腐食させる禍々しい姿。

 基本形態は四足獣に近かったが、状況に応じて様々な形態へと変化する能力を持っていた。



「彼らの最大の特徴は、周囲の光を完全に吸収することでした」


 光を吸収する——それは闇そのものだ。

 俺は昨日、Dランクスタンピードで一瞬だけ感じた恐怖を思い出した。

 あれが街全体に広がるというのなら……。


「夜間の暗視装置や熱感知センサーさえもほとんど役に立ちませんでした」


 エリカの声にはかすかな焦りが混じっていた。


「『影の軍勢』は光だけでなく、電磁波や熱エネルギーさえも吸収していたのです。一瞬にして、近代的な装備や通信手段のほとんどが使えなくなりました」


「そして最も恐ろしいことに、『影の軍勢』は知性を持っていました。彼らは単に破壊するだけでなく、意図を持って行動していました。通信施設を優先的に攻撃し、援軍を孤立させ、部隊を分断する……それは明らかに戦術的思考でした」


 彼女の言葉が俺の脳裏に悪夢のような映像を描き出す。

 俺はククルの存在にわずかな安心感を覚えた。

 もし彼女がいなければ、俺もこの話を聞くだけで発狂してしまいそうだった。




「どうやって対抗したんですか?」


 俺は思わず尋ねた。

 生き残る方法を知りたかった。もしこれが俺たちの未来なら——


 エリカの表情が少し明るくなった。

 それは希望の光を思い出すような表情だった。


「ある医師が『影の軍勢』の特性を発見してくれました。彼らは光を吸収しますが、特定の周波数の光、特に赤い光には反応するということを」


 彼女の声には、初めて感謝の色が混じっていた。


「黒神遥人医師。国境なき医師団の一員で、彼のおかげで一時的に『影の軍勢』を混乱させることができました」


 黒神遥人——その名前を口にした瞬間、エリカの表情に微かな変化が生じた。

 一瞬、彼女の目に敬意と何か言いようのない感情が浮かんだように見えた。

 

 同時に、ハヤテの身体がわずかに強張るのを見逃さなかった。

 彼の三度笠の下からは、ほんの一瞬だけ緊張した視線が感じられた。


 エリカとハヤテ——そこには何か見えない糸があるのだろうか?


「赤い光は『影の軍勢』を完全に退けることはできませんでしたが、少なくとも彼らの移動を遅らせることができました」


 エリカは自分の記憶を掘り起こすように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「林勇太郎の『零式』部隊は、この情報を元に新たな作戦を練りました。彼の部下である白雪永人が、その魔銃から特殊な赤い光の弾丸を放つことで、一時的に『影の軍勢』を混乱させることに成功したのです」


「白雪永人?」


 俺は思わず食い入るように尋ねた。


「志桜里の兄ですか?」


 エリカはゆっくりと頷いた。


「そうです。彼は『閃光作戦』と呼ばれる計画を提案しました。彼の魔銃から放たれる光の弾丸は『影の軍勢』を一時的に混乱させ、避難経路を確保できたのです」


 魔銃——スターバーストのことを思い出した。

 志桜里が大切にしている、兄の形見。

 それは単なる武器ではなく、多くの命を救った英雄の遺産だったのだ。

 そのことを知って、胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。


「しかし、それはまるで大海の一滴のような努力でした」


 エリカの声が沈んだ。




「『影の軍勢』は夜が深まるにつれて活動が活発化し、その数も増えていきました」


「彼らの攻撃方法も多様化し、単に光を吸収するだけでなく、触れた者の生命エネルギーを奪い取るようになりました」


「彼らは……私たちの恐怖を感じていました」


 エリカの声に苦々しい思いが混じる。


「恐れれば恐れるほど、強くなるようでした」


 ククルが俺の肩をぎゅっと掴んだ。

 彼女の半透明の体がさらに透明になったように見える。恐怖のせいだろうか。


「『影の軍勢』は人間の恐怖や混乱などの負の感情を増幅させる能力を持っていました。長時間暴露されると、人々は幻覚や幻聴を引き起こし、パニック状態に陥りました」


「そして、彼らは声を真似ることを学んだのです」


 エリカの声が冷たくなる。


「犠牲者の声を模倣して仲間を罠に誘い込み、一人また一人と犠牲者を増やしていきました」


 その言葉に、鳥肌が立った。

 親しい人の声を聞いて近づいたら、それが闇の怪物だったなんて……想像するだけで悪寒が走る。


「第三波だけで、更に2,500人の命が失われました」


 俺は思わず息を飲んだ。


「合計で……もう4,550人が……」


 エリカがゆっくりと頷いた。




「そして、それはまだ始まりに過ぎませんでした」


 レオンは無言で立ち上がり、再び窓辺へ移動した。外の景色を見つめる彼の背中には、言いようのない重みが感じられた。


「まだあるんですか?」


 俺の声が震えた。


「『影の軍勢』と『崖壁機械兵』の連携は明らかでした」


 エリカの声が冷静に響いた。


「一方が地上の防衛施設を攻撃している間に、他方が夜間に視界を奪い……それは単なる偶然ではありませんでした」


「連携……? 意図的に……?」


「ええ」


 エリカは静かに言った。


「これこそが、私たちが最も恐れる『スタンピード』の真の姿です。単なるモンスターの暴走ではない。明確な意図を持った、戦略的な攻撃なのです」


 俺はククルを見た。

 ククルの顔には純粋な恐怖の色が浮かんでいた。

 

 これは子供向けのヒーロー物語とは次元が違う脅威だ。

 昨日までは「中二病のヒーロー」として敵を倒し、人々に感謝される姿を夢見ていた。

 でも、これが現実のヒーローが直面する恐怖と絶望の深さだったのか。


「そして午前9時30分、第四波が訪れました」


 エリカの声が静かに部屋に響いた。


「『天空の恐怖』と呼ばれるものです」




 ——第四波:天空の恐怖——


 


 レオンが窓辺から振り返った。

 サングラスに隠された彼の瞳には、今でも消えない恐怖の色が残っていた。


「第四波が来たとき、俺たちはまだ第三波との戦いの最中だった」


 彼の声はかすれていた。


「誰も予想していなかった……空からの攻撃を」


 レオンの言葉が俺の脳裏に映像を描き出す。


黒雲竜ヘイユンロン


 彼の声が低く沈んだ。


「翼幅と体長の比率、飛行パターン、群れの形成状態。俺の頭脳は即座に分析した」


「重慶の上空は、計測可能な速度で黒い雲に変わっていった」


 黒雲竜——その言葉からどんな存在か想像できなかったが、それが天から降りてくる恐怖だということは分かった。


「俺は既に次の行動パターンを計算していた。太陽光の減衰率から、この暗さは防衛側の視認性を42.3%低下させる。戦術的に不利な状況だった」


 レオンの視線は遠い記憶を追っているようだった。

 その手が微かに震えている。


「そして、予測通り黒雲竜が降下を開始した」


 彼の声が冷たくなる。


「最初の犠牲者は高層ビルの屋上の人々。彼らの生存確率は既に9.7%まで低下していた。黒雲竜は354.2km/hという驚異的な速度で降下し、鋭利なクチバシと爪で彼らを襲撃した。風にのって消えていく悲鳴。確率は0%になった」


 言葉の一つ一つに重みがあった。

 それは単なる報告ではなく、彼の心に刻まれた傷痕だった。


「次に始まったのは酸性の雨。pH値は推定で1.2から1.5」


 エリカが言葉を引き継いだ。


「多くの市民はそのような装備を持っていませんでした。彼らの露出した皮膚は酸によって溶解し、壊滅的な損傷を受けました」


 俺の胃がひっくり返りそうになる。

 紅茶を口にした途端、むせてしまった。目の前が一瞬だけ暗くなる。


「大丈夫ですか、阿須那さん?」


 エリカが心配そうに声をかけた。


「す、すみません……続けてください」


 彼女は少し間を置いて、静かに語り続けた。




「私たちS級探索者もすぐに対応しました。私は『量子跳躍』で高所に移動し、黒雲竜と直接対峙しました。レオンは『カオスセオリー』を駆使して局所的に大気の性質を変え、雨のPh値を中和しようとしました」


 俺は無言で聞き入った。

 二人の能力は初めて聞くものだった。

 彼らが持つ力は、俺の想像をはるかに超える規模のものだったのだろう。


「レイラは『フロストゾーン』で黒雲竜の体液を凍結させ、動きを鈍化させる戦術を採りました」


 彼女の声が少し震えた。

 レイラの名前を口にするたび、エリカの表情には深い痛みが浮かぶ。


「しかし、敵の数が圧倒的に多く、私たちの能力は分散せざるを得ませんでした」


「白雪永人も最前線で戦っていました」


 エリカの声が少し明るくなった。


「恐怖の中でも揺るがない瞳。他の探索者が後退する中、彼だけは前へ前へと進み続けました。彼の魔銃から放たれる光の弾丸が黒雲竜の翼膜に命中すると、特定の波長が化学反応を引き起こし、翼膜が一時的に固化する現象が起きました」


「まるで魔銃が彼の意思に応えているかのように、射撃の度に光の強度が増していったのです」


 志桜里の兄……彼がどれほど勇敢な人物だったか、その片鱗が伝わってきた。

 まるで今の志桜里の魔銃の動きのように。

 あのとき、江ノ島ダンジョンで彼女が歌うと、魔銃が共鳴していた。遺伝的な何かなのだろうか?


「昼過ぎには、戦況分析は最悪の数値を示していました」


 レオンの声が再び響く。


「市中心部は黒雲竜に完全制圧され、高層ビル群の構造的完全性は限界値を超えていました。救助活動の成功確率は3.2%まで低下していました」


「林勇太郎の『零式』部隊も壊滅的な打撃を受けていました」


 レオンは顔を上げ、エリカと一瞬視線を交わした。何か言いかけて止めたようだった。


「そして午後3時頃、状況は臨界点に達しました」


 エリカの声が冷たくなる。


「親竜が行動を開始したのです」


 エリカは親竜を描写した。翼幅60メートル、体長30メートルという規格外の大きさ。

 巨大な体から放たれるプラズマ状のビームで建物が一瞬で真っ二つに……。

 その描写を聞くだけで、頭の中で強烈なイメージが形成される。


「『あれを止めないと街が壊滅する!』林勇太郎の分析は正確でした」


 エリカの声に敬意が混じる。


「しかし、私たちのリソースは既に枯渇に近づいていました」


「『まだやれることがある』」


 エリカの声が少し震えた。それは自分の過去の言葉を引用しているようだった。


「『親竜に集中攻撃を』」


「限られた選択肢の中での最適解を求め、私たちは挑戦を続けました」


「白雪永人も私たちと共闘していました」


 エリカの声に尊敬の色が混じる。


「彼の魔銃から放たれる光弾は親竜の黒い鱗を一時的に貫通したのですが、持続的な効果は得られませんでした」


「この方法では倒せないことは明白でした」


 レオンの声には諦めが混じっていた。


「数値は明確に敗北を示していました。しかし、それでも私たちは戦い続けました。残存する民間人保護が最優先事項だったからです」


「第四波だけで推定2,500人の死亡者数を数えました」


 エリカの声が沈んだ。


「都市インフラの機能的完全性は著しく損なわれていました」


 沈黙が部屋を満たした。


「そして私たちは認識していませんでした」


 エリカの声が突然冷たくなった。


「これが序章に過ぎないことを」

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