第99話
「彼は自らが選んだ英雄の道を歩むのか、それとも現実の恐怖に屈するのか。騎士としての誓いと、人間としての弱さが、彼の心の中で戦いを繰り広げる」――ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』より――
——第一波:黒い洪水——
「8月16日の夕暮れ時、重慶の街は夏の熱気に包まれていました」
エリカの声はかすかに震えていた。
それは単なる物語ではなく、彼女自身の傷ついた記憶だった。
言葉が語られる前から、その記憶がどれほど重いものかが痛いほど伝わってきた。
「私はホテルの窓から洪崖洞ダンジョンの入り口を見つめていました。ダンジョン周辺に張られた警備線。慌ただしく移動する軍の車両。そして、空気中に漂う、説明のつかない重苦しさ」
彼女の瞳が遠くを見つめている。その目に映るのは今この部屋ではなく、3年前の光景だろう。
「私たちは既に危険を察知していました。データ解析の結果、翌日には何かが起きる確率が92.7%だと……」
エリカの言葉を遮り、レオンが口を挟んだ。
「その正確な数値を覚えているのか。俺の計算では91.4%だったがな」
「いつも正確すぎるのよ、あなたは」
エリカが小さく溜息をついた。
俺は思わず聞き入っていた。二人のやり取りに、長い年月を共にした者同士の絆を感じる。
「発生前夜、私たちはホテルの部屋で最終確認をしていました。レイラと……」
「レイラ?」
俺は思わず口を挟んだ。
エリカの表情が一瞬、深い痛みで歪んだ。彼女の指先がカップを握る力が強くなった。
「彼女は……私の親友であり、護衛でした」
レオンが軽く咳払いをした。
「続けるか?」
エリカは小さく頷き、再び窓の外を見つめた。東京の夜景が、かつての重慶の姿と重なって見えるのだろうか。
「当時、私たちは何も知らなかった」
彼女は静かに言った。
「あれが、歴史上最初で最悪のA級スタンピードになるとも、私たちの大半が生還できないとも……」
ハヤテは静かに目を閉じ、過去の記憶に耐えるように見えた。
三度笠の下から覗く目には、言葉にできない何かが宿っている。
その手が無意識に喉を触る仕草をした。
「あの時を思い出すのは……辛いでござんすな」
ハヤテの声は低く、深い。
探索者としての責任ではない、もっと根源的な何かを背負っているような重みがそこにはあった。
「明日の4時半、洪崖洞ダンジョンの周辺に集まった人々の顔には、まだ恐怖の色はなかった」
エリカの目は遠くを見つめていた。
「彼はまだ……生きていた」
「アスちゃん……こわい……」
ククルが震える声で囁いた。
「ああ」
俺も思わず喉が乾くのを感じた。
マントを翻し、仮面を付けて中二病的な台詞を言うことが「ヒーロー」だと思って、今まで活動していた。
しかし、今エリカの言葉から感じ取るものは、それとはあまりにもかけ離れた現実だった。
「第一波は『黒い洪水』と呼ばれる恐怖でした」
エリカの声が再び響き、空気が緊張で張り詰めた。
「午前2時17分。最初に聞こえたのは、地下から響く低い唸り声でした」
彼女が言葉を紡ぐと、まるでその場に立ち会ったかのような錯覚に陥る。
「次の瞬間、ダンジョン入口から黒い液体が溢れ出したのです」
黒い液体——瞬間、昨日見た黒いモンスターから滴り落ちていた液体の光景が蘇った。
あれがもっと大量に、街全体に広がるとしたら……想像するだけで恐ろしい。
「若い探索者が黒い液体に触れた瞬間、彼は悲鳴を上げました」
エリカの声が沈み、彼女の表情が暗く曇った。
「黒い筋が彼の脚を駆け上がり、彼の体を内側から浸食していきました。数秒後、彼の体は完全に黒く変色し、崩れ落ちたのです」
その描写があまりにも生々しくて、思わず吐き気を覚えた。
紅茶を手に取ったが、おいしいと思えなくなっていた。
「午前中だけで少なくとも500人以上の市民が黒い液体に飲み込まれました」
エリカの声には感情の揺れが感じられた。冷静に話そうとしているのに、その瞳には怒りと悲しみが交錯している。
「彼らの大半は変質し、新たな"黒いモンスター"となって周囲を襲い始めました」
俺は昨日の光景を思い出していた。
たった一体の黒いモンスターでさえあれほどの脅威だったのに、何百もの黒いモンスターが街を満たすとなれば……指先が震えるのを感じた。
「この第一波だけで850人の命が奪われました」
エリカの言葉が、重い石のように胸に落ちた。
「そして、それは単なる始まりに過ぎませんでした」
——第二波:鋼鉄の軍団——
沈黙が部屋を満たした。
俺は頭の中で850という数字を反芻していた。
たった一日で、たった一つの波で、850人もの命が失われたという事実。
昨日のDランクスタンピードでさえあれほど恐ろしかったのに、Aランクとなれば……。
「質問があれば、どうぞ」
エリカが静かに言った。
「あの黒い液体……昨日見た霞染鏡蟲から滴り落ちていたものと同じですか?」
「その通り」
エリカは冷静に答えた。
「あれは前兆の一部でした。しかし重慶の時とは違い、今回は前兆を認識できた。だからこそ早めの避難指示が出されたのです」
俺は胸の奥に広がる不安と闘いながら、次の質問を口にした。
「第一波の後、何が起きたんですか?」
エリカとレオンは視線を交わし、今度はレオンが口を開いた。
「第二波は『鋼鉄の軍団』と呼ばれるものだった」
レオンの声は、さっきまでの傲慢さが消え、どこか虚ろに響いた。
「重慶の指揮所。午後1時22分。モニターが突然警報を発し始め、放つ赤い光が俺の顔を不気味に照らした」
彼の視線は今この部屋を見ておらず、過去の光景に固定されていた。
「ダンジョン入口からゆっくりと何かが現れ始めた。最初は一体。次に二体、三体と……」
彼の声は淡々としていたが、その指先が微かに震えていた。
「崖壁機械兵――高さ3メートル近くあり、その体は洪崖洞の建築様式を思わせる赤褐色の金属で覆われていた。頭部は中国の古代兵士の兜を模しているようだったが、顔の部分は赤く光る光学センサーで埋め尽くされていた」
機械的なモンスターの描写に、俺とククルは息を呑んだ。
ダンジョンから出てくるモンスターにも機械型がいるとは……一体何なんだ?
「彼らは軍のように整列し、まるで指揮官の号令を待つかのように静止していた。そして……」
レオンの声が沈み、彼は左腕の袖を少し上げた。
そこには広範囲に及ぶ火傷の痕が見えた。
俺は思わず息を飲んだ。
あの不死身に見えるレオンでも、こんな傷を負うほどの恐怖だったのか。
「彼らは完璧な軍事フォーメーションを組み、周囲に展開し始めた。軍の重火器部隊が応戦を開始したが、効果はほとんどなかった」
彼の声が冷たく響く。
「崖壁機械兵は両腕を変形させ、高速連射ガトリングガンに変えた。次の瞬間、黒い弾丸の嵐が軍の陣地を襲った」
レオンの表情に一瞬、痛みが浮かんだ。それは身体的な痛みではなく、記憶の痛みだったのだろう。
「防弾チョッキを着た兵士たちが、まるで紙人形のように次々と倒れていった。彼らの悲鳴は機械銃の音にかき消された」
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
「第二波だけで、更に1,200人が命を落とした」
レオンは淡々と数字を告げた。それは冷たい事実として、俺たちの前に突きつけられた。
「2,050人……」
俺は思わず呟いた。
「たった二つの波で、もう2,000人以上が……」
「数字だけでは伝わらないだろうな」
レオンの声にはかすかな苦さが混じっていた。
「あの日、一瞬で母親から引き離された幼子の泣き声。崩れ落ちる建物の下敷きになった家族の悲鳴。それが今でも夢に出てくる」
琥珀色の瞳が一瞬、遠い記憶を追うように曇った。
その目に映る光景を思うと、背筋が凍る思いがした。