十四話 【モース渓谷】
【モース渓谷】
――まさに地獄だった。
それは地獄のブートキャンプだった。「王都でなんて言ってないで、今すぐ始めましょう」そう言ってククルに強引に林へ連れて行かれ「実戦形式の方が身につきますから」と、木の枝を手にした彼女にサンドバッグのように打ちのめされた。
林の中に、ユウマの悲鳴がこだまする。
……四十五回は殺されたに違いない。
満身創痍でキャンプへ戻ると、カイル隊長が無言で肩をポンポンとたたいてきた。
「男前になったじゃねーか」
ラスクがからかうように笑う。
「ボクも昔、ククルに同じこと言ってえらい目をみたよ……」
ロックがガタガタと震えている。
そして、汗ひとつかいていないククルがにこやかに言った。
「なかなか見込みありましたよ、ユウマ。これから毎日やりましょうね!」
乾いた笑いが出た。
♢ ♢ ♢
――次の朝。
「よし! そろそろ出発するぞ」
カイルの一声とともに、白銀の狼たちは馬の手綱を軽く引き締め、渓谷へと足を踏み入れた。
空はどんよりと厚い雲に覆われ、太陽の光を遮って、谷全体に青白い影を落としていた。湿った風が渓谷を吹き抜け、草葉をざわめかせる。どこか遠くで雷鳴のような音が聞こえた気がした――
モース渓谷の道は狭く、両脇を切り立った岩肌に挟まれている。ところどころには、転がる石や折れた枝が散乱している。しかし、カイル隊長たちはこの地に慣れているらしく、隊列を整え、馬を手際よく進ませていく。
やがて、隊は渓谷の中ほどに差し掛かる。そこには、岩の橋があった、風と水が数百年をかけて削ったという伝説があるらしい。橋の足場は狭く、岩の表面は雨のしずくで滑りやすくなっている。
その橋にさしかかったとき、前方に異様な光景が現れた。
岩橋のたもとに、無惨な形で転がる大型の馬車の残骸があった。幌は破れ、木製の四つの車輪は一つ完全にもげ落ち、もう一つは斜めに折れていた。横倒しになった車体、こびりついたような血痕が地面だけでなく岩の壁にも飛び散っていた。
――商人の馬車か?
積まれていたであろう荷が無造作に地面に散らばり、麻袋のひとつは中身が破れて毛皮や日用品などがこぼれている。だが、そこにいるはずの人間や馬の姿は、どこにもなかった。
「……やばいな」
カイルがぼそっと言う。その顔には、緊張が滲んでいた。
隊は馬車の傍らを通り抜ける。カイルが左手を上げ、静かに合図を送った。ククルたちはすぐに反応し、それぞれ馬に軽くかかとを当てて速度を上げる。蹄が乾いた音を響かせる。
「何があったんでしょうか……?」
カイルの背に乗っていたユウマが、少し声を潜めて尋ねる。
「わからねえ。野盗か、あるいは獣か……」
カイルは前を見据えたまま低く答える。
「だが、人も馬もいなかった。血の量からして無事ってわけはねぇ。だとすれば……喰われた可能性が高い」
橋を渡り切り、右手にうっそうとした林が姿を現す。隊は街道を疾走しながら、林と並走する形で進んでいく。すると——
「……いるな」
カイルの低い舌打ちが聞こえた。
ユウマも顔をしかめながら、流れるように過ぎていく木々の間に視線を送る。何かがいる。黒い影——最初はただの錯覚かと思った。しかし、目が次第にスピードに慣れてくると、その輪郭がはっきりしてきた。
犬のような形。だが、普通の犬ではない。
「まさか……」その瞬間だった。
「スパイクドックだ!」
カイルの叫びが林に響き渡り、隊全体に緊張が走る。
——ロックスパイクドック。昨日、ロックさんから聞かされたばかりの名だ。この時期には谷へは降りてこないと言っていたが……
「振り切るぞ!」
カイルが声を張り上げると、馬の蹄音がさらに加速する。風を裂く勢いで駆け抜ける隊列の中、カイルの腰に回したユウマの腕に力がはいる。
だが、林の中のロックスパイクドックたちも、まるで馬に並ぶかのような速さでついてくる。影が増えていく。気配が濃くなっていく。
そして——
「来た!」
ユウマが叫ぶと同時に、先頭の一匹が街道に飛び出した。カイルの馬は咄嗟に身を翻し、辛うじて躱す。しかし——
「うわっ!」
その直後、ラスクの馬の真正面に、二匹目のロックスパイクドックが飛び込んだ。馬は驚愕のあまり前足を跳ね上げ、急停止。つちぼこりが宙を舞い、馬のいななきが空に響く。
「止まるなッ——!」
カイルの声も虚しく、ロック、ディム、カラン、ロン、ククルたちの馬も連鎖的に停止を余儀なくされる。
だが、事態はそれで終わらなかった。
「後ろ!」
ククルが叫んだ時にはもう遅かった。林から、次々とロックスパイクドックが飛び出してくる。左右に分かれた黒い影たちが、まるで計算されたかのような動きで隊を包囲する。
——挟まれた。