十話 【最後の晩餐】
【最後の晩餐】
「……殿、キリハラ殿」
遠くから声が聞こえる。耳の奥で揺れるその呼びかけに、優馬はゆっくりとまぶたを持ち上げた。淡い光に滲む視界の中で、ククルの青く透き通った瞳が覗き込んでいた。その瞳には心配と安堵が入り混じった優しさが浮かんでいる。
どうやら、いつの間にか深い眠りに落ちていたらしい。
「あ……ごめんなさい、食事の用意が出来た時に伺ったのですが、気持ちよさそうに寝ていらっしゃったので、少し時間をおいて参りました」
ククルは柔らかな口調で微笑む。彼女の声は優しく、心地よかった。
優馬はしばらくその顔を見つめ、状況を理解すると、はっとして目を見開いた。
「あ、わ、わ! すみません、俺、寝てたんですね!」
慌てて上体を起こし、寝ぐせを気にして髪を両手で触る。だが、特に乱れている様子もなかった。それでも、どこか落ち着かない自分の動作に内心苦笑する。
「では、お食事に参りましょう」
ククルはやわらかく微笑み、すっと立ち上がると、先に立って部屋のドアを開けた。優馬は立ち上がり、彼女のあとを追って階段を降りていく。
階下からは賑やかな声が響いていた。まるで祭りの前夜のような空気が広がっている。
「おお! キリハラ殿! 先に始めてるぜ!」
カイル隊長が樽型のジョッキを掲げ、満面の笑みでこちらに呼びかけた。テーブルにはカラン、ロック、ロンが並び、和気あいあいと談笑していた。酒精の香りと焚き火の温かさが室内に漂っている。彼らの顔は赤らんでいて、すでに出来上がってるようだった。
カウンターにはラスクが「よう!」とグラスを軽く持ち上げて挨拶してくる。
厨房の方では、ディムがエプロン姿で慣れた手つきで料理を運んでいた。大鍋から立ちのぼる湯気に、腹がきゅうと鳴る。
ククルはさっと動いて、料理を受け取ると、優馬のために空いた席へと運んでくれた。
「さあ、温かいうちに召し上がってくださいね」
その言葉に優馬は深く一礼し、「ありがとうございます。では、いただきます」とスプーンを取った。
最初に口にしたのは、香草が香るスープだった。優馬は一口すすると、目を見開いた。ジビエを思わせる濃厚な旨味と、香辛料の効いた刺激が舌の上で踊る。肉の野性味はありながらも臭みはなく、キノコの出汁と絶妙に調和していた。口の中でふわっと広がるその風味に、思わず肩の力が抜ける。これに白飯があれば文句なしだ――と心の中で笑う。
スープを飲み干したタイミングで、ククルが次の料理を運んできた。大きな皿には、香ばしく焼き上げられた分厚いステーキがのっている。表面には美しく焼き目がつき、食欲をそそる肉汁がにじんでいた。
ナイフで切り、一口頬張る。柔らかくジューシーな肉が、口の中いっぱいに広がった。
「おいしい……これ、何の肉ですか?」
思わず尋ねると、ククルがさらりと微笑んで答えた。
「ミニ豚ですよ」
「え?」
乾いた笑いがこぼれた。
♦ ♦ ♢
しばらくして食事を終え、酒を一杯だけ飲み干した優馬は、「ごちそうさま」と厨房のディムに礼を述べたあと、「ちょっと涼んできます」と誰ともなく言い残し、ゆっくりと宿屋を出た。
その背中を追いかけるように、怒号と騒音が響いていた。
「どさくさに紛れて何処触ってやがる! 色ボケジジイー!」
何かが派手に壊れる音が続き、優馬は肩をすくめて扉を閉じた。
外に出ると、すぐ脇にある小さなテラスへ足を運ぶ。ひんやりとした夜風が肌を撫で、熱のこもった身体を優しく冷ましてくれた。
実のところ、賑やかな空気が少し苦手だった。
テラスの欄干に身を預け、夜空をぼんやりと見上げる。星々が滲むように輝いている。もしかして地球と繋がっているのではないか、そんな不思議な気持ちになった。
しばらくして、背後から小さな足音が近づいてきた。振り返ると、そこにはククルの姿があった。
月明かりに照らされた彼女の金髪は、しなやかに肩へと流れている。鎧姿ではなく、軽装に着替えた彼女のシルエットはどこか柔らかく、神秘的だった。
「すみません、騒がしくて……」
ククルはどこか申し訳なさそうに言う。優馬はとっさに「いえいえ、楽しそうで――」と返しかけたが、言葉が喉に詰まった。
彼女たちは今日、死んでいたかもしれない――
いや、今日だけじゃない。騎士ということは軍人だ……きっと今まで、何度も死線を越えてきたのだろう。命を削るようにして生きてきた彼女たちに何が言えるというのだ――
優馬は、ふと自分が彼女に「後で話す」と言ったことを思い出した。
「あの、俺の素性の話なんだけど……」
重い沈黙を破って口を開くと、ククルは微笑み、小さくうなずいた。
「少し、歩きましょうか」
彼女はそっと一歩を踏み出し、静かな夜の広場へと向かって歩き出した。
優馬はその背中を追い、ゆっくりと歩き出した。