第九十五話 風を送る
洛陽の空は重たく、沈む夕日すら雲に呑まれ、ただ赤錆びた光だけが残っていた。
城郭の輪郭も霞み、どこか遠い異国のように見える。
管子の屋敷。
香の薄く漂う室内に、静かな湯の音と、茶の香が広がる。
「漢中からの兵糧輸送、整いましたか」
管子は湯を注ぎながら言った。
視線は茶碗ではなく、湯気の向こうの呂明に注がれている。
「動き出した。表向きには堂々と、だ」
呂明は微笑し、香を一息吸う。
彼の目元には疲れも見えたが、その奥には揺らがぬ何かがあった。
「漢中から西涼など、秦が最も警戒する道筋でしょう」
管子が言うと、呂明は茶を口に運んだ。
「だからこそ、最も堂々と行く。警戒されることこそ、こちらの望みだ」
「囮、ですな」
「言葉には気をつけよう。文書のどこにも、そうは書いていない」
ふっと笑い合う二人。
その静けさは、剣を抜かずに戦う者たちの、特有の緊張感に満ちていた。
「……だが、君のことだ。他にも策を打っているのではないか」
管子は湯を足しながら言った。
あくまで無造作に、しかし目だけは呂明を逃がさぬように。
「何の話だ?」
「“風向き”が、変わった気がする。洛陽だけでなく、もっと南――あるいは、別の流れが」
呂明は茶碗を置き、笑った。
「さすがは“制度の鬼”だ。空気の湿りまで読み取るとは」
「制度は人の心を封じるためにあるが、人の心を通さずには制度も動かん」
管子の目が細くなる。
「……私は、“裏を読む”癖がある。正面から差し出された札よりも、懐に隠された指の動きを見てしまう」
「それは病気だ。だが、有能な病だ」
沈黙が落ちる。
外で風が吹き、簾がわずかに揺れた。
「私が知るべきことは?」
「いずれ、分かる」
呂明は立ち上がる。
「だが今は――信じてくれ」
その言葉に、管子はわずかに肩を揺らす。
そして、笑った。
「君は、理想で人を動かす。私は理で人を縛る。おかしな組み合わせだ」
「だからこそ、均衡が生まれる」
呂明が戸口に立ち、もう一度だけ振り返った。
「風を送った。あとは、芽が出るのを待つだけだ」
彼が出ていくと、静けさだけが残る。
管子はひとり、冷めた茶を啜る。
「風を……か。風とは、読めぬから風なのだよ。呂明」
その声は誰に向けたものでもなく、ただ部屋の静けさに溶けていった。
外の空は深く曇り、風だけが西へと吹いていた。




