第九十四話 洛陽に影を走らせ
空は鈍く曇り、洛陽の空に沈む陽は、煤けた銅のように重かった。
人の声は喧しいが、耳に残るのは車軸の軋む音と、幾重にも重なる商談の駆け引き。都の華やぎの裏には、権謀と欲が渦を巻く。
呂明は洛陽の一角、ひときわ目立たぬ屋敷の門をくぐった。
応対に出た老僕が一礼すると、何も告げずに中へと通す。
待っていたのは、淡く香を焚いた一室。
その中央で、男は静かに茶を点てていた。
「久しいな、管子」
呂明が声をかけると、男は穏やかな笑みを浮かべて振り返った。
仮面の奥にある瞳は、奥底の読めぬ影。仄かに笑う唇が、心の裡まで透かすようで、誰もが無意識に言葉を選ぶ。
「まさか、こんな場で名を呼ぶとは。君は相変わらず、面白い」
「管子」と呼ばれた男は、杯を一つ差し出す。
「洛陽で、何を求める? 君のことだ。風に吹かれて遊山とは思えぬが」
「一筆頼みたい」
「文ではなく、舟だろう?」
呂明の目がわずかに細められる。
管子は、言葉の裏を探るように視線を逸らさない。
「西涼に荷を運びたい。洛陽を起点にすれば、秦中央の流通にも紛れ込ませられる。しかも――」
「“もし成功すれば”、今後の商流の口が開く。秦と西涼を結ぶ大動脈として」
管子が呟いた。
呂明は、杯を受け取ると、短く言った。
「危険な道でもある。最悪失敗してもいい。だが、成功すれば、大きな道になる。――次の時代を開く、大動脈だ」
「危うい橋だ。秦の目は、軽くはないぞ?」
「承知している。だからこそ――君に頼みたい」
静かに、茶の湯気が揺れる。
管子はしばらく黙ったあと、ふと笑った。
「……昔から変わらぬな。君は“人の心”を担う。私は“制度”を測る。だが、時にその二つが交わるとき、均衡は一歩進む」
「信じる」
呂明は短く言った。
「君が動くなら、この道は開くと。私は、そう信じている」
(信じる、か――)
心のうちで呟きながら、指先がわずかに震えた
それを隠すように、杯を口に運ぶ。
「分かった。旧知として――いや、“未来の秤”として引き受けよう。ただし、君もわかっているだろう?」
「代償は払うつもりだ」
「言葉ではない。“結果”で示せ」
呂明は頷いた。
その瞬間、何かが音もなく動き出した。
表に見えるものは、あくまで“通常の商団”。だが、その影に紛れ、ある種の流れが、秦の中枢を突き抜け、西涼へと向かい始めていた。
外の風が、洛陽の瓦を揺らした。
茶の香りは、すでに冷えていた。




