第九十三話 三筋の道
戦の足音は、土を踏む前から聞こえる。
鄴の屋敷の奥。地図を広げた卓上に、冬の陽がぼんやり差し込んでいた。
呂明は家臣の一人に短く言い放った。
「漢中に文を送る。宛先は張殿。兵糧輸送の準備に入ってもらう」
その言葉に、場の空気がわずかに揺れた。
「漢中から……西涼まで?」
「そうだ。もっとも一般的で、誰もが思いつく道筋だ。だからこそ、よく目立つ」
家臣たちは顔を見合わせた。
「囮、ですか?」
「囮などとは書かぬ。ただ、堂々と、兵糧の準備と出発を明記する。それでいい」
呂明は淡々と続ける。
「張殿には、追っ手を引きつける動きも含めて依頼する。多少危険を伴うが、彼なら理解してくれるはずだ」
筆を走らせる手元に、ふと、影が差す。
「ですが――それだけでは、兵糧は届かぬのでは」
一人の家臣が、恐る恐る口を開いた。
呂明は筆を止め、窓の外へ目を向ける。冷たい風が、葉の落ちた木々を揺らしていた。
「他にも手は打ってある。詳細は……まだ話せない。だが、いずれ分かる」
その声音には、確かな予感と含みがあった。
「呂様、まさか……」
問いかけようとした者を、呂明は手で制した。
「それ以上は詮索無用だ。動かすには、時がある」
家臣たちは互いに目を合わせた。だが誰一人、言葉を挟もうとはしなかった。
呂明の沈黙の裏に、何かがある――そう感じながらも、それを問うべきでないことを、彼らは知っていた。
この主が真に語るとき、それはもはや動かせぬ時機であるのだから。
呂明は再び地図を見下ろす。西涼、そしてその先にある雁門――李牧が待つ地を、まるで秤にかけるように見つめながら、ぽつりと呟く。
「……届けるのは兵糧ではない。命だ。希望だ。あの地で、耐え忍ぶ者たちの、明日だ」
その言葉は、決して誇張ではなく、確かな意志だった。
部屋の隅に控えていた使者が、文を受け取り、深く頭を下げる。
「全速で、漢中へ」
「頼む」
戸が開き、使者が風のように駆け出す。
その背を見送りながら、呂明は小さく呟いた。
「三筋の道。表と裏、光と影――すべてが交差する、その先に、均衡があると信じたい」




