第九十二話 秦の影、人の道
老魯達と別れ、西涼への道を急ぐ。
馬蹄は乾いた地を叩き、風は遠く砂を巻いている。阿述は鞍の上から、地平に沈みかけた陽を見つめた。焦げたような空気の中に、何かが焦げる匂いが混じっていた。
「……匂うな」
伏明が呟いた。
阿述が問うより早く、伏明は口を開く。
「火の匂いだ。……村が焼かれたか、あるいは――戦の残り火だ」
先に進むにつれ、道はさらに荒れた。折れた柵、崩れた屋根、血痕のような赤土。人気のない村落の脇を通り抜けたとき、阿述は壊れかけた井戸のそばにしゃがむ少年の姿を見つけた。
痩せ細ったその手に握られていたのは、歯の欠けた陶椀。水は、もう底を尽いていた。
阿述は咄嗟に袋から干し肉を取り出したが、伏明が腕を伸ばして止めた。
「下手に与えりゃ、明日には他の連中が押し寄せる。……下手すりゃ、村ごと潰れるぞ」
「でも……見捨てるのか?」
「生かすのが王道とは限らねぇ。――死なせねぇための知恵も、必要なんだ」
阿述は伏明の言葉に俯いた。だが、目の前の少年の視線だけは、彼の胸に焼き付いて離れなかった。
その夜、焚き火のそばで伏明が言った。
「この辺りは、かつて秦と義渠の境だった。秦軍が拠点を作ったが……いまじゃその痕跡すら残っちゃいねぇ。荒れて当然だ」
「秦は……どうして、こんなふうに国を壊すんだろう」
阿述の問いに、伏明は乾いた笑いをもらした。
「壊したわけじゃねぇ。統治する力が足りねぇだけさ。――王に仁がなきゃ、民はついてこねぇ。それだけの話だ」
火がぱち、と弾けた。夜空には月が浮かび、音もなく見下ろしていた。
阿述は、焚き火を見つめながら呟く。
「童庵では、藺桃さんが言っていた。『情の通じない世の中で、信じ合うのは難しい。でも、難しいからこそ、信じる価値がある』って」
「甘いな」
伏明が鼻で笑う。
「この土地じゃ、信なんてのは命取りになる。食うか食われるか、それだけだ」
「……伏明さんは、それでも、呂明様の言葉を信じたから、今こうして一緒にいるんじゃないの?」
伏明は沈黙した。しばらくの間、風の音だけが聞こえた。
やがて彼は、火にくべた枝をつま先でつつきながら言った。
「……ガキの頃の俺もな、信じてたよ。師匠も仲間も。でも、それでひとつの村が潰れた。……信じるってのは、重ぇんだ」
阿述はそれを聞いて、口を閉じた。けれど、焚き火の明かりに照らされた彼の眼差しは、静かに何かを貫いていた。
数日後、山を越えて西涼の盆地が見えてきた。
「ようやく着いたな」
伏明が肩を伸ばした。阿述も思わず、馬上で深く息を吐いた。
その時、風に乗ってどこか懐かしい音が届いた。金属を打つ音――鍛冶の音だ。
山あいの村。だが、そこにはかつて見たことのある形の旗が立っていた。白地に、黒く塗られた槍の紋。
「……これは」
伏明が目を細める。
「廉頗将軍の旗印だ」
阿述の胸に、懐かしい顔が浮かぶ。白髪にして怒気をたたえた眼差しの老人と、その背に付き従う青年。ナイガルと廉頗――いま、彼らのいる地に、自分たちは辿り着いたのだ。
伏明がぽつりと呟く。
「信が贅沢だと言ったが……それを力に変えられる奴も、いるもんだな」
その言葉に、阿述はただ小さく頷いた。




