第九十一話 約束の焔
山の朝は、凍りついた空気と共に始まった。
薪のはぜる音が、静かな室内にひびく。老魯の縁で泊まらせてもらった山村は、小さく貧しいが、家々には雪を防ぐ工夫があり、井戸も手入れされている。猟と木こりを生業とする人々が、なんとかこの過酷な地に根を張っていた。
阿述は、昨晩から気がかりだった話を、ようやく切り出した。
「昨日、村の人たちの話を聞きました。……流民が、この先に潜んでいる、と」
目の前に座る男――魯光は、老魯のかつての義兄弟であり、いまはこの村のまとめ役だ。年の頃は四十ほど、厳つい顔に深い傷痕が走っている。
「元は兵だ。趙で戦を終え、戻る場所もなく、この山に逃げてきた。最初は山菜を分け与えたりもしたが……近ごろは狩り場を奪い、焚き木を盗み、とうとう見張りを襲った。もう限界だ」
村人たちは怯えていた。だが、その流民たちも、生きるためにやむを得ず他人の境界を犯している。それは、童庵で学んだ阿述には痛いほどわかる。
「戦の爪痕が、人を人でなくしていく……」
そう呟くと、伏明がやれやれと天井を見上げた。
「お前のその“理想”もわかるがな。ここにいるのは、飢えた元兵士どもだ。言葉より刃が早い連中に、話など通じるものか」
「でも、話してみなければわかりません」
即答する阿述に、伏明は鼻を鳴らす。だが、諦めたように肩をすくめた。
「……いいさ、止めはしない。だが、背中は見せるな。俺も付いていく」
その夜、阿述は魯光と共に、流民たちの野営地に向かった。
月の光が、雪を蒼く染める。
刃を持つ者たちの前に立ち、阿述はまっすぐに名乗った。
「俺は、童庵から来た者です。戦に巻き込まれ、道を探しています。でも……あなたたちも、そうではないですか」
男たちは沈黙した。雪にまみれ、痩せこけた顔――それはまるで、阿述自身の過去のようだった。
「食べ物が欲しいなら、村に頼ればいい。……けれど、争いが起きれば、どちらも傷つく。互いの命を削るだけです」
「頼ればいい、だと……」
一人の男が、怒りに顔を歪めた。
「俺たちは、趙の軍に召され、家族を置いて戦った。終われば放り出され、帰る村も燃えていた……信じろと言うが、何を信じろってんだ!」
その叫びに、阿述は応えた。
「信じられないのは、あなたたちのせいじゃない。でも、それでも、信じようとすることを、俺は諦めたくない」
その言葉に、伏明の目が細められた。
(……まったく、呂明そっくりだ)
やがて、魯光が前に出る。
「綺麗ごとだけでは解決はしない。……だが」
彼は流民たちと阿述を見比べ、深くため息をついた。
「……それでも、今は譲る。明日の朝まで、小屋と食料を分ける。ただし、遊んで食おうなんて思うな」
ざわめきが広がる中、魯光の目がぎらりと光った。
「雪が溶けたら、南の畑の開墾を手伝ってもらう。獣も増えてる。腕が立つなら、夜の見回りに入ってもらう。できるか?」
流民たちの間に戸惑いが走る。だが、阿述がそっと言葉を添えた。
「村と流民が“持ちつ持たれつ”になれるなら、それがいちばんいい。助けるためじゃない。共に、生きるために」
沈黙の中、先ほど怒鳴った男が、ふと目を伏せた。
「……耕すくらい、できる。昔は鍬を握ってた」
魯光は鼻を鳴らし、踵を返す。
「だったら明日、見せてもらう。お前らの“働く気”ってやつをな」
流民たちは、互いの顔を見合わせ、やがてうなずいた。
焚き火の炎が揺れる中、阿述は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。命を、つなぐことができました」
帰り道、伏明がぽつりと呟いた。
「趙の民は、恨みを糧に生きる。あれは生きる術だ。だが……恨みだけじゃ、前には進めねぇ」
「はい。でも、“恨み”を超えるものも、人の中にはあると、俺は信じたいんです」
「……信じる、か」
月明かりの下で、伏明はふと立ち止まり、阿述の背中を見た。
小さな焔のような背中だった。だがそれは、風に消えるどころか、かすかに誰かの心に火を灯していく――そんな予感があった。
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