第九十話 凍土の声
風は鳴いていた。夜の山中、焚き火の炎が頼りなげに揺れている。吹雪がようやく弱まり、三人は岩陰に身を寄せていた。
老魯が持っていた干し肉と小さな壺酒で、簡素な夕餉を済ませたあと、誰からともなく沈黙が訪れた。薪がはぜる音だけが、雪の帳に吸い込まれていく。
「……一つ、聞いてもいいですか」
火を見つめていた阿述が、ぽつりと声を出す。
「どうして、あんなに冷たく言えるんですか」
伏明が目を上げた。阿述はまっすぐに彼を見ている。
「誰かが困っているのを、見て見ぬふりして……それが『正しい』なんて、どうして言えるんですか」
しばしの沈黙。伏明は視線を外し、口元に苦い笑みを浮かべた。
「……俺も昔は、信じてたさ」
火の粉がふっと舞った。
「趙で軍にいた頃、ある村を通りがかった。敵の斥候が潜んでるって情報があってな。村人たちは口をつぐんでた。……だが俺は信じた。『民を信じてこそ王道だ』って。言ったのは上官だ。今の俺に言わせりゃ、青臭ぇ理想家だったよ」
阿述は言葉を失ったまま、耳を傾ける。
「結果は、ひどいもんだった。夜明けに斥候に奇襲され、仲間の半分が死んだ。村人は皆、黙ってたんだ。誰一人、忠告もしなかった」
「……」
「あとで知った。奴ら、情報を黙ってた見返りに、食糧をもらってたんだと。家族のために、敵に媚びた。仕方がないって? そうだろうな。自分の子を飢えさせたくない、それも人間だ。だがな、あの時死んだ連中の顔は、俺から消えねぇ」
火がぱちりと音を立てた。
「それ以来だ。人を信じるには、見返りが要ると思うようになった。“情”なんて贅沢は、余裕があるやつだけの道楽だと」
伏明は、手にした小枝で火を突く。
「今の趙も、似たようなもんだ。郭開がはびこり、王ですらも小人。民は、自分のことで精一杯だ。心の余裕なんてありゃしねぇ。そんな中で、誰かを恨み、敵だと決めつけて、やっと自分の存在を保ってる」
「……だから、誰も助けないんですか?」
阿述の声は震えていた。
「それじゃ、なにも変わらない……!」
「変わらないさ。だから俺は、現実に従って動く。助けても見返りがないなら、切り捨てる。目的のためにな」
「でも、助けたんですよ。俺が助けたいって言ったら、手伝ってくれたじゃないですか……!」
伏明は答えない。代わりに、老魯がぼそりと呟いた。
「人間はな、自分の心を守るために、天秤を傾けとる。誰かを恨むことで、自分が正しいと思える。誰かを見捨てることで、安心を買う。そんでもって――それに慣れちまうんじゃ」
阿述は伏明を見た。伏明は目を閉じていた。
「でも……俺は、信じたいです」
焚き火の影が、揺れていた。
「それで損をしても、バカにされても、それでも……信じたいんです」
伏明は、ゆっくり目を開けた。その瞳に、火が映っていた。
「……お前は、危なっかしいな」
呟きは、どこか寂しげだった。
「だがまあ――お前みたいなのが、まだいるってだけで、捨てたもんでもない」
その言葉に、老魯がくつくつと笑った。
「なんじゃ、おぬしら、よう似とる。ひねくれてるだけで、心はまっすぐじゃ」
焚き火が、ぱちりとまた音を立てた。凍てつく風の中、三人の影が寄り添って揺れていた。




