第八十九話 風の中の灯
風が唸る。白く煙る雪道を、二つの影が進んでいた。
ひとりは、青年・阿述。しんしんと降る雪の中に、深くフードをかぶって歩を進める。もうひとりは、長身の男・伏明。目元に鉢巻を巻き、重い荷を担いで黙々と後を歩いていた。
ここは鄴から西涼へと向かう山中の道。地図に記された正規の街道は雪で閉ざされ、踏み跡すら見えない。足を取られ、前に進むのもやっとの状況だ。
阿述は唇を噛んだ。
「……まずいな。食糧もあと二日分。村ひとつ越えられれば――」
「引き返すか?」伏明が低く呟いた。
「いいえ。行くしかありません」
即答する阿述に、伏明は肩をすくめる。何も言わずに先を促した。
そのときだった。
雪の影に、人のような塊が横たわっているのを阿述が見つけた。
「――人……?」
駆け寄ると、それは雪に半ば埋もれた老人だった。動かない。まるで凍りついたように、白い雪の中に沈んでいた。
「……まだ、生きてる」
唇が微かに震え、手がかすかに動いた。
「伏明さん、火を!」
「……正気か? このままじゃ、こっちも……」
伏明の声が一瞬、冷たく響く。
「任務を忘れたか。西涼まで、あと何日かかる?」
阿述は、拳を握った。
「覚えてます。でも、目の前で死にかけている人がいるのに、見捨てるのが『正しい』なんて、言われたくありません!」
吐き捨てるように言い放った阿述に、伏明は一拍、視線を落とした。
やがて黙って背負い袋から麻布を取り出し、木の枝を集め始める。
「……火を起こすなら、早くしろ。風が変わった」
短く言い残し、伏明は風上に立った。
阿述は夢中で火を熾し、老人の手を温め、水を口に運ぶ。
しばらくして、老人が目を開いた。
「……ああ……ぬくい……こりゃ、夢かのう……」
「夢じゃありません。助けたんです。名前、言えますか?」
「名前……? 老魯とでも呼んでくれ……」
老人――老魯はかすれた声で語り出した。かつてこの山の麓に住み、戦乱で村を焼かれ、彷徨っていたという。
「……人に助けられて、ここまで来た。あんたも、そうやって生きてきた口じゃろ?」
阿述は、はっとする。
幼い頃。飢え死にしかけていた自分を拾ってくれた、あの人の姿が脳裏に浮かぶ。藺桃――童庵の母のような女性。叱り、鍛え、食わせてくれた。彼女の言葉が、蘇る。
『困ってる人を見たときに手を伸ばせる余裕。それが、王道の始まりさ』
そのときだった。老魯が静かに口を開いた。
「……この先にな、廃れた村がある。人はおらんが、屋根のある家がひとつある。越えられれば、裏道で西涼の道にも出られる。案内してやるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。この辺の山道は、わしの庭みたいなもんじゃ」
阿述が伏明を見ると、彼はわずかに頷いた。
その夜、三人は廃村にたどり着いた。かろうじて風を防げる小屋に身を寄せる。
そして翌朝、老魯の案内で、山を越えていく。
途中の山小屋では、老魯がかつて世話になった猟師の家族と再会し、阿述たちも温かい粥と道案内を得る。
別れ際、老魯が阿述の肩をぽんと叩いた。
「情にほだされたかと思ったが、案外、道理を持っとる。あんたさんの行く道に、幸あらんことをな」
「……助けたのは、俺じゃありません。情が助けてくれたんです」
阿述は、振り返らずに歩き出した。
雪はやみ、山の稜線が明るくなっていた。
伏明が静かに呟く。
「……道を知ってる。地図より人の顔を信じるタイプ――か」
阿述がふと笑う。
「藺桃さんの言葉ですよ」
二人の背中が、雪の中に吸い込まれていった。
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