第八十八話 影の手、母の手
鄴の街角に冷たい風が吹き抜ける。人々の顔に不安の色が濃くなり、露天の品も寂しげに並んでいた。そんな中、呂明のもとに童庵の者たちが呼び出された。
童庵は、鄴郊外に新たに設けられた孤児院――といっても、まったくの新設ではない。乱世の中、ばらばらに存在していた小さな庇護所を、呂明が自費で支援し、組織として再編・拡大させたのが「童庵」である。
その統括を任されているのが、藺桃という中年の寡婦だった。
かつて鄴のはずれで、夫を亡くした後も細々と孤児を育ててきた藺桃の働きぶりに、呂明が目を留めたのだ。面倒見の良さと、妥協なき厳しさ――母としての器を備えた女性だった。
「急な話ですまないな、藺桃さん」
呂明は、粗末な木椅子に座る藺桃に深々と頭を下げた。
「礼など要りませんよ。うちの子を見込んでくれたんでしょう?」
藺桃がにっこり笑う。隣に立つのは十六の青年――名を阿述という。元は街の浮浪児だったが、読み書きと人付き合いに長け、今では童庵でもっとも信頼される若者の一人だ。
「阿述と、私の信頼する男を一人組ませ、西涼へ使いを出したい。命がけの旅になるかもしれない」
「ならばこそ、うちの子に声をかけたんでしょ。あの子は、道を知ってる。地図より人の顔を信じる口さ」
藺桃の声は柔らかかったが、その目には覚悟が宿っていた。
そこへ現れたのは、黒衣の壮年男性――寡黙な用心棒・伏明であった。呂明の護衛として長く仕え、今やその影のごとき存在である。
「伏明と阿述。この二人で西涼に向かわせる」
「了解しました」と伏明が低く応える。
一方、呂明は密かに「備え」を進めていた。
――郭開の手が動くのは時間の問題だ。
そう確信していた。
案の定、童庵の帰路、阿述が見知らぬ男に道を尋ねられ、その後つけ回される。伏明が気づいて退けたものの、動きは早い。
「狙いは使いか、それとも俺か……」
呂明の胸に、冷たい針のような予感が突き刺さった。
その夜。
「李将軍のためだけではありません。雁門にいるのは、民です。飢える者たちに、我らが届けるのは兵糧ではなく、命です」
呂明は伏明と阿述に最後の言葉を送った。
「だがそれは、容易い道ではない。妨害はあろう。寒さも、盗賊も、越えねばならぬ」
阿述が答える。
「なら、越えてみせます。母さんが言ってました――“誰かがやらなきゃならぬ時、お前が立てるなら立て”って」
藺桃は何も言わず、ただ二人の背をじっと見つめていた。
夜明けと共に、二つの影が西へ向かった。
そして、呂明は――密かに天秤を手にする。
だが今回は、測るのではない。
預けたのだ。彼らの覚悟に。
天秤は傾いたまま――だが、それでいい。
人の心が重なれば、いつかまた均衡は戻る。
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