第八十六話 目と目の裏側
冬晴れの鄴の町に、緊張が走っていた。
趙国の商人組合に登録を済ませ、仮営業を始めた呂明の元には、各方面からの視線が注がれていた。中でも郭開派の動きは活発であり、游季を通じた孤児問題の“踏み絵”を乗り越えた呂明への警戒は強まっていた。
そんな中、呂明は城下の小さな茶舗で、ある男と向き合っていた。
男の名は周桓。一見して粗末な身なりの中年だが、全身の動きには隙がなく、瞳には鋭さがある。彼は、李牧将軍の側近にして、鄴の諜報を担う密偵の一人だった。
「李将軍の名を口にするとは、大きく出ましたね」
呂明が慎重に切り出すと、周桓は笑みとも冷笑ともつかぬ表情を浮かべて茶をすする。
「あなたのことは、しばらく前から見させていただいていました」
その言葉に、呂明は驚きを隠せなかった。
「――見ていた?」
「孤児の件もそうですが、それ以前から、鄴に入った直後から動向は記録していました。秦での評判、韓や楚での動きも調査済みです。あなたがただの商人ではないことは、すぐに分かりました」
「監視されていたわけですか」
「信用するにも理由が要る時代です」
淡々と答える周桓。彼の言葉には、好意ではなく“判断”の匂いがあった。
「郭開の動きが荒くなっているのは、李将軍にも伝わっています。我々としても、郭開がこのまま鄴を思うままに操るようなことがあっては困る。ですが、李将軍自身が表に出るわけにはいかない。……そういうときに、あなたのような“外からの風”は、時として貴重な存在になるのです」
呂明は黙って、相手の真意を測るように茶を口にした。
「つまり、私は“駒”にされるということですか」
「違います。あなたには、あなたの思惑がある。こちらもそれを尊重します。ただ、利が一致する今は、“敵の敵”として手を組めると判断したまでのこと」
その冷静な言葉に、呂明は小さく頷いた。
「郭開はすでに、私を“信”を盾にした偽善者と見ています。彼は、信に生きる者が、最後は“裏切り”に倒れると本気で思っている」
「李将軍もまた、信を知る方です。あなたの在り方を、どこか重ねて見ておられるのかもしれません」
「……それは、光栄なことです」
ふっと笑みを浮かべる呂明。その目は、何かを決意したように強くなっていた。
「では、“一つ目”の提案をしましょう。趙での商圏拡大には、内陸の輸送路が不可欠ですが、郭開派がその路を抑えていると聞いています。そこに風穴を開ける手段、ありますか?」
「すでに調整中です。こちらから、いくつかの仲介者を手配しましょう。もちろん、李将軍の名は出せませんが」
「それで充分です」
密やかな握手が交わされる。
この日、鄴の片隅で、郭開という権力に対抗する新たな糸が、静かに結ばれた。
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