第八十五話 善意の踏み絵
鄴の冬は、冷える。だが、空気は澄んでいた。
市の北端にある官舎の一室。遊季が持参した温酒の湯気が、湯呑の縁を静かに這っていた。
「このたびの貴殿の参入、趙としても歓迎の意を表したく」
柔らかな物腰の男は、盃を呂明に差し出す。呂明は軽く会釈し、それを受け取るが、口はつけない。
「ただ、貴殿ほどの大商を迎えるには、それなりの“調整”が必要でしてな」
「調整?」
呂明が静かに問い返す。遊季は、あたかもそれが些末なことであるかのように、手をひらひらと振った。
「ご存じでしょうが、近年、戦災や飢饉により、趙でも孤児が増えております。治安の悪化を防ぐため、国としても各商家に協力を仰いでいるのです」
その言葉に、呂明は盃を卓に戻した。
「つまり、引き取れと?」
「お心ある商人に、そうした子らを預かっていただき、育てつつ、労働力としても役立てていただく。秦では“童庵”と申しましたか。国としては、そのような商人に“便宜”を図る方針です」
便宜――その一語が、呂明の警戒を引き出す。
「具体的には?」
「税の軽減、市場の枠割の優遇、出資への優先権など……貴殿ほどの商人ならば、それなりの“権益”もある」
「“善行”にしては、随分と手厚い」
「ふふ、それだけ国も本気だということです。もちろん、引き受けの際には我々役所も調整に尽力しますので……ほんのわずかばかりの“紹介料”を頂戴しております」
言葉は柔らかいが、その実、脅迫に近い。
「紹介料、ですか。まるで子どもに値札がついているようだ」
「言葉の綾ですよ。貴殿ならお分かりいただけるかと。制度として形にせねば、結局、裏で悪質な買い手が暗躍する。であれば、我々が管理した方が、子らのためにも良いと考えております」
呂明はしばし黙した後、冷えた声で応じた。
「制度なき善意は、悪意より恐ろしい」
遊季の笑みが、わずかに揺らいだ。
「私は、秦で“童庵”と呼ばれる制度に携わったことがあります。孤児を集め、教育と仕事を与え、人としての尊厳を守る。それには、厳格な記録と、外部からの監査が不可欠です」
「……それは素晴らしい取り組みですね」
「しかし趙には、それがない。あるのは、言葉と権限を持った役人と、形式だけの書類だ。そんな状況で、私が孤児を引き取れば――“人身売買”の濡れ衣を着せられても、おかしくはない。そしてその“紹介料”は、どこに流れる?」
「もちろん……趙の福祉に。ええ、きっと役立ちますとも」
薄く笑みを浮かべる游季。だが、呂明の視線は冷たかった。
遊季は湯呑を口に運ぶふりをしたが、手がわずかに震え、菓子の皿が音を立てた。
「なので、四つの条件を提示させていただきます」
呂明は指を折る。
「一、孤児の引き渡しには必ず書面を交わし、双方の記録を残すこと。
二、孤児の身元と出身地は可能な限り明らかにし、親族が現れた場合は即座に返還すること。
三、養育・教育の状況は、定期的に趙国側の監察官に開示すること。
四、我が商会による独占を禁じ、他の商館も自由に受け入れ可とすること。」
沈黙が落ちる。
「これは……まるで、法家の文書ですな」
「法は人を縛るものでなく、守るものですから」
「上の方には、“呂明は人身売買には加担せず、制度を整えた上で孤児を引き受ける”と、添えていただけるとありがたい」
游季はふふ、と笑った。
「これはこれは、ただの商人とは思えませんな」
「“信なき取引は、いずれ自らの首を締める”──これは私の信条です」
「……と言いますと?」
「その“紹介料”は一銭も懐に入れることは出来ないでしょう。孤児の衣食住と教育の費用として、帳簿に記録し、趙官の査閲を常時受ける形で運用いたします。紹介料は“利”としてではなく、“義務”として扱う──それが我が商のやり方です」
游季は返す言葉を失い、黙って菓子を口にした。その手元、指先がわずかに震えていた。
遊季は微笑を保ったまま、酒を飲み干した。
「さすがは呂公。お話は上に伝えておきますよ」
「よろしくお願いいたします」
礼儀正しく頭を下げる呂明の目は、氷のように冷たかった。
その報告を受けた郭開は、鄴の奥の離れで一人、香を焚いていた。
「紹介料を拒んだか。義ではなく、理によって斬る……」
朱い香炉の煙が、闇の中で揺らぐ。
「だが、信に拠る者は、いずれ“人の裏切り”で倒れる」
その瞳に宿る紅い灯火は、まるで次の一手を思案する蛇のように、細く、鋭く、冷ややかだった。
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