第八十四話 監視下の商人
鄴の街は、異様な静けさに包まれていた。
商都とは名ばかりに、路地には人の声が少ない。軒先に掲げられた絹や染物は、風に揺れているだけで、値を呼ぶ声も笑い声もない。
呂明は、ゆっくりと足を止めた。
——静けさは、安寧の証ではない。肌の下を這うような圧……これは、監視の街だ。
共にいた李成が小声で囁いた。
「……鄴は、趙の中でも異質な街です。軍の管轄に近く、郭開殿の直轄と聞いております」
「なるほど、納得です」
呂明は周囲に目を向けながら答えた。店の前に立つ者の目が、どこかこちらを伺っている。
そのとき、一人の男が道を横切った。白衣に身を包み、律儀に一礼するその男は、趙の官吏・游季と名乗った。
「韓の陽翟よりお越しの呂明殿。以後、私が商業監督官としてお世話いたします」
その口調は丁寧であったが、どこか突き放すような冷たさがあった。几帳面すぎる態度と、控えめな笑み。だがその足元には、飼い慣らされた蛇がいるような気配を漂わせていた。
「郭開殿の……お役人ですか?」
「いえ。私は、趙王に直接任命された役人でございます。鄴における商人の出入りは、すべて王命によって統制されています。ですが、もちろん不自由はさせません。ご安心を」
安心、か。
呂明は皮肉を胸に収めたまま、彼の案内で商館の一角へ通された。部屋は清潔で、食事も整えられていた。
だが、それは裏返せばこういうことだ。
——監視の名目で、事実上の“監禁”だな。
「さすが、趙の第一都市。待遇は上々です」
呂明が笑ってみせると、游季もまた柔らかく頷いた。
その夜、李成がそっと部屋にやって来た。
「……これを、陽翟で託かっておりました。時間差で届くよう手配しておりました」
手にしていたのは、一通の書簡だった。封蝋には、韓の家紋。張良の名がある。
呂明は静かに封を切る。
『——君が鄴で見るものは、いまの韓と似ている。外には誇りを掲げながら、内には疲弊と猜疑が満ちている。
我が韓が崩れかけているのは、まさに“郭開のような者”の台頭を許したからだ。趙が同じ道を辿るならば、君も巻き込まれよう。
私は君を信じている。だが、忠告はする。鄴には、煙ではなく火種がある。』
呂明は手紙を畳み、じっと机上の地図を見つめた。
燕の国境に近い北部、そして鄴の東には、動きの読めない軍備。
……すべてが、攻めを防ぐためではなく、「何か」を封じ込めているように見える。
「游季殿は、燕の動きが不穏と申していたが……」
「違う」
呂明はつぶやいた。
「彼は西を気にしていた。つまり、秦だ」
そして郭開。
名も顔も見えぬその存在が、この街を締め上げている。
呂明は立ち上がり、李成に言った。
「この地で、趙の豪商とつながるには時間がかかる。郭開との面会も、まだ遠いだろう。だが、游季の背後に潜む動きがある限り――いずれ、郭開が私を“見にくる”」
「……その時こそが?」
「ああ。真の勝負だ」
游季の報告書が、夜更けにひとつの屋敷に届いた。
灯火の下、書を読む男の目が、ふと紅く染まる。
「呂明……か」
郭開は、ゆっくりと笑った。
「面白くなってきたな」
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