第八十三話 越境の布石
洛陽の風が、微かに涼を帯びていた。
呂明は、書簡を広げたまま、黙して考え込んでいた。文面の送り主は張良。わずか数行にすぎないが、行間には慎重に選ばれた意味が折り畳まれていた。
「――“陽翟の絹問屋、旧知にして実直。もし東方へ志あらば、一度、門を叩いてみられたし”」
口に出して読み上げ、呂明は口元をわずかに歪めた。
言外に含まれていたのは、“韓の手を通じて、趙への通路を開け”という提案だった。陽翟は韓の東部、すなわち趙と接する国境の街。張良はこの町の商家と呂明とを結びつけることで、交易の糸口を織り始めたのだ。
数日後、呂明は陽翟に足を運んだ。韓と秦の緊張が続く中でも、この街は穏やかな表情を保っていた。軍靴の音ではなく、染物の香と、商人の声が風に乗っていた。
「……張家の紹介で?」
現れた男は、年の頃三十半ば。絹問屋・李家の当主、李成である。無骨な外見に似合わず、言葉は丁寧だった。
「はい。急な訪問で失礼いたしますが、東方の絹と馬鈴の流通について、いくつか提案がありまして」
呂明は、事前に準備した図を広げた。巴蜀から韓を経て、趙・燕方面へと向かう物流路の簡略地図。その中には、陽翟を中継点とした迂回路も含まれていた。
「この路は険しいが、趙の鄴まで抜ければ、彼の地の需要に応えられると見ています。特に戦備が高まる今、塩と馬具、そして西涼の皮革の需要が高まるはずです」
李成は図を眺めながら、茶を口に運んだ。
「……なるほど。だが、鄴は趙でも軍管区に近い。郭開殿の管轄下にあると聞いているが」
「だからこそ、我々のような中立の商人が必要なのです。軍属の商隊ではなく、あくまで民間の流通として、物資を供給する。これが混乱を避ける最善の策だと、私は考えています」
李成は視線を上げ、じっと呂明を見た。
「本当に、ただの商いか?」
呂明は微笑を返した。
「世の中すべてが、銭だけで動くならば、話は早いでしょう。ですが――そうでもないから、話が尽きないのです」
李成は低く笑った。
「なるほど。張家が紹介するわけだ。……面白い。協力しよう」
それは大きな一歩ではなかった。だが、確かに越境の橋が一本、静かに架けられた瞬間だった。
陽翟の街に夕日が落ち、絹を染める煙が夕空に溶けていく。
(秦も、韓も、趙も――どこに境があろうと、人の暮らしは続いている)
呂明はそんなことを思いながら、茶を飲み干した。
そして、その手にはまた一つ、新たな糸が結ばれていた。
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