第八十二話 糸を結ぶ者
お待たせしました。
第六章開幕です。
張良は、思ったより若かった。
だが、軽薄さは一切なかった。むしろ、丁寧な言葉遣いと沈着な眼差しに、育ちの良さと深い思慮がにじんでおり、清涼な瞳には、言葉を選ぶ慎重さと知性がにじんでいた。
「あなたが呂明殿ですね」
文士らしい物腰で、張良は頭を下げた。呂明も軽く会釈を返す。
秦に囚われた韓非子の志を継ぐ者。その中に、韓王の血筋に連なる俊英――張良の名があった。
呂明の名を耳にしたのも、韓王の密命を受けて各地を回っていた過程でのことだった。
(情報は確かだった。秦・楚・韓、西涼にも足を伸ばし、流通と金融の要所に影響力を持つ――まさに“動く要衝”)
張良は表情を変えず、内心で呟いた。
(この男を味方に引き入れられれば、韓は正面から秦とぶつからずとも、局地での主導権を握れる。だが……)
「貴殿にお会いしたかったのは、単に商人としての実力だけではありません」
張良の言葉に、呂明は湯を口に含み、茶碗を置いた。
「商いの道は、国の境に左右されません。私は、国に仕える前に、人に仕えてきました。楚、秦、韓――信に応える者には、恩で返す。それだけのことです」
(……“国”ではなく“人”か。やはりこの男は、縛れぬ)
張良は瞼を伏せたまま、問う。
「貴殿がこれまで通ってきた道を、あらためて聞かせていただけますか。私の眼が節穴でないか、確かめたいのです」
呂明はうなずき、立ち上がると、巻物を広げた。
そこには簡略な地図が描かれ、主要な交易路が複雑に交錯していた。
「私は、まず漢中で身を起こしました。巴蜀は秦の土地と言えども、罪人が送られるような未開の地でした。そこで鉄器と塩の商いを始めたのです。
やがて、楚に縁のある者と出会い、楚秦間の貿易を開始しました。物価と物流の偏りに着目し、秦の塩と楚の絹、そして楚荊南の穀物を北へ転売し、飢饉の地を救いました。
その後は、西涼との交易で馬を扱い、韓では――ご存知かもしれませんが――金貸を少々。」
指で流通の経路をなぞりながら、続ける。
「秦では王の信任を受け、一部の軍需物資にも関わっていますが、完全に従属する気はありません。あくまで、交わす契約は、私自身の意思によるものです」
(やはり“国家”より“秩序”を優先する男だ。理想主義ではなく、計算の上での行動……だが、その根にあるのは、信義か)
張良は、言葉を選びながら答えた。
「……まこと、志あるお方です」
呂明は首を横に振る。
「韓非子様に比べたら私などは……。ただ――混乱の世でも、人と人をつなぐ道は、必ずどこかに残っている。その糸を握る手に、少しばかり慣れているだけです」
張良はその言葉を、噛みしめるように聞いた。
やがて静かに口を開く。
「私が仕えるべき人は、ただ血筋が尊い者ではないと、そう感じさせてくれました。もし、貴殿が国を選ぶのであれば、私は人を選びたい。──この先、力を合わせる日が来るやもしれません」
だがその裏で、密かに考えを巡らせる。
(この男は、戦を避けながらも戦局を動かせる。韓にとっての“もう一つの軍略”。王は、呂明殿を通じて秦に揺さぶりをかけようとしている。だが、それに気づいた上で協力するのか、それとも――)
呂明は一瞬だけ笑みを浮かべた。
「その時は、肩書ではなく、志で呼び合いましょう。張良殿」
二人の対話は、友情の始まりではない。
それは、利と信のはざまで結ばれた一本の糸。
それでも、いつか国を越える絆へと育つ、確かな始まりだった。
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