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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第五章 落日余光編
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第八十一話 嘆きと布石

 知らせは、静かに届いた。


 韓非、咸陽にて死す――。


 韓王は、玉座の前にひざまずいていた報告役の声に、しばし反応を示さなかった。静寂のなか、玉座の背後に差し込む朝の光が、彼の眉間に深い影を落とす。


「……そうか。あの子も、逝ったか」


 重く沈んだ声。韓非を「子」と呼ぶその言葉には、哀しみと、諦めと、怒りが溶けていた。


「なにゆえ、助けられなかった」


 独白のようなつぶやきに、側近たちは頭を垂れたまま、答えられなかった。


「――だが、これで分かった。我が韓の中に、すでに秦の手が伸びているということだ」


 韓王は立ち上がった。その目にあったのは、かつての理想ではない。現実を睨み据える、支配者の冷たさだった。


「三晋の誇りを、穢させてはならぬ。我が韓は、七国の中心。この地を握らねば、秦とて覇を為せぬ」


 王はふたたび座し、命じた。


「魏に文を、趙に使いを出せ。三晋が結ばねば、我らの未来はない」


 重臣たちが散ってゆく中、一人、若き書生が殿中に残った。


「失礼仕ります。韓良――いえ、張良と申します」


 その青年は、韓非の縁者であり、もとは黄氏の子孫と伝えられている。目はまっすぐで、声は驚くほど落ち着いていた。


「韓非殿の志を継ぐ者として、呂明殿にお会いしたく思います。いまは、韓の南市にいるとか」


「よかろう。伝えよ。『志の火は消えず』と」


 韓王の目が、ふたたび燃えはじめていた。


     


 南市の雑踏の中、呂明は市場の変化を確かめていた。信用帳に記された数が、先月より一割も伸びている。貨幣の流通も滑らかだ。だが、胸中にあるのは達成感ではなかった。


 ――韓非、死す。


 その報せは、とっくに届いていた。


「力なき正義は、果たして正義か……」


 呂明の背に、声がかかった。


「あなたが呂明殿ですね。私、張良と申します。韓非殿にご縁ある者です」


 若い、が、眼差しは深い。敵意もなければ媚びもない。あるのは、探究だけだ。


「その眼……似ているな。韓非に」


 呂明は少し笑って応じた。


「あなたは、“法”を継ぎますか? それとも、“志”を?」


 張良は一歩も退かず、答えた。


「法も志も、民のために使うのが、私の道です」


 その瞬間、呂明の天秤が揺れたような気がした。


     


 同じころ、邯鄲――。


「呂明か。聞いたことがある。韓で市を操っている若造らしいな」


 趙王・悼襄王が、酒を啜りながらつぶやくと、傍らの郭開が笑った。


「ただの若造ではございません。奴が開いた市は、韓に潤いをもたらし、趙にまで影響を及ぼし始めております」


「ほう。で、そいつは秦の者か?」


「今はまだ、どちらにも属しておりません。が、いずれは――王の御為に使える男かと」


 悼襄王は杯を置いた。


「ならば、見ておけ。呂明とやらが、王道を掲げるのか、覇道に染まるのか」


     


 その夜、呂明は静かな帳の中で、天秤を見つめていた。


 左に載せたのは「王のため」、右に載せたのは「民のため」。

 どちらに傾いたか、彼は誰にも語らなかった。


 ただ一言、胸中で呟いた。


「――まだ、仕込みの刻よ」



数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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