第八十一話 嘆きと布石
知らせは、静かに届いた。
韓非、咸陽にて死す――。
韓王は、玉座の前にひざまずいていた報告役の声に、しばし反応を示さなかった。静寂のなか、玉座の背後に差し込む朝の光が、彼の眉間に深い影を落とす。
「……そうか。あの子も、逝ったか」
重く沈んだ声。韓非を「子」と呼ぶその言葉には、哀しみと、諦めと、怒りが溶けていた。
「なにゆえ、助けられなかった」
独白のようなつぶやきに、側近たちは頭を垂れたまま、答えられなかった。
「――だが、これで分かった。我が韓の中に、すでに秦の手が伸びているということだ」
韓王は立ち上がった。その目にあったのは、かつての理想ではない。現実を睨み据える、支配者の冷たさだった。
「三晋の誇りを、穢させてはならぬ。我が韓は、七国の中心。この地を握らねば、秦とて覇を為せぬ」
王はふたたび座し、命じた。
「魏に文を、趙に使いを出せ。三晋が結ばねば、我らの未来はない」
重臣たちが散ってゆく中、一人、若き書生が殿中に残った。
「失礼仕ります。韓良――いえ、張良と申します」
その青年は、韓非の縁者であり、もとは黄氏の子孫と伝えられている。目はまっすぐで、声は驚くほど落ち着いていた。
「韓非殿の志を継ぐ者として、呂明殿にお会いしたく思います。いまは、韓の南市にいるとか」
「よかろう。伝えよ。『志の火は消えず』と」
韓王の目が、ふたたび燃えはじめていた。
南市の雑踏の中、呂明は市場の変化を確かめていた。信用帳に記された数が、先月より一割も伸びている。貨幣の流通も滑らかだ。だが、胸中にあるのは達成感ではなかった。
――韓非、死す。
その報せは、とっくに届いていた。
「力なき正義は、果たして正義か……」
呂明の背に、声がかかった。
「あなたが呂明殿ですね。私、張良と申します。韓非殿にご縁ある者です」
若い、が、眼差しは深い。敵意もなければ媚びもない。あるのは、探究だけだ。
「その眼……似ているな。韓非に」
呂明は少し笑って応じた。
「あなたは、“法”を継ぎますか? それとも、“志”を?」
張良は一歩も退かず、答えた。
「法も志も、民のために使うのが、私の道です」
その瞬間、呂明の天秤が揺れたような気がした。
同じころ、邯鄲――。
「呂明か。聞いたことがある。韓で市を操っている若造らしいな」
趙王・悼襄王が、酒を啜りながらつぶやくと、傍らの郭開が笑った。
「ただの若造ではございません。奴が開いた市は、韓に潤いをもたらし、趙にまで影響を及ぼし始めております」
「ほう。で、そいつは秦の者か?」
「今はまだ、どちらにも属しておりません。が、いずれは――王の御為に使える男かと」
悼襄王は杯を置いた。
「ならば、見ておけ。呂明とやらが、王道を掲げるのか、覇道に染まるのか」
その夜、呂明は静かな帳の中で、天秤を見つめていた。
左に載せたのは「王のため」、右に載せたのは「民のため」。
どちらに傾いたか、彼は誰にも語らなかった。
ただ一言、胸中で呟いた。
「――まだ、仕込みの刻よ」
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