第八十話 法の果て、理の涯て
咸陽の夜は、重く、深い。
嬴政の宮殿に集められたのは、わずか四人の男たちだった。
呂明。韓非。管子。そして、嬴政。
白壁の広間には、剣も、矛もなく、ただ言葉だけが交わされる。だが、その言葉は鋼鉄のごとき重みをもっていた。
「覇と理、その二つで秦を治める」
嬴政の言葉が静かに響いたあと、しばし沈黙が支配した。
やがて、管子が口を開く。
「理を掲げれば、人は服す。だが、それは“従わせる”ことでしかない。信がなければ、人は心からは動かぬ。……韓非殿、それでよいのか?」
韓非は薄く笑った。
「信など、権力の飾りに過ぎぬ。信を託せぬ者に、国を委ねることはできぬ。ゆえに法は、人に先んじて立たねばならぬ」
その言葉に、管子は首を振る。
「おぬしが“人を疑う法”を徹底すれば、いずれ人は“法を疑う”。おぬしの法には、温もりがない」
呂明は黙って両者のやり取りを見ていたが、ふと口を開いた。
「……理が人を縛り、信が人を動かす。そのどちらも、使い方を誤れば、暴政にもなろう。大王は、その危うさをご承知のうえで、両方を求められたのだと、私は理解しています」
嬴政は微かにうなずいたが、そこに別の声が割って入る。
「理を過ぎれば、粛清となる。信を過ぎれば、愚民化となる。どちらがより悪かと問われれば、私は……“生き残る方”を選ぶな」
李斯が、柱の影から現れた。すでに彼も、広間に呼ばれていたらしい。
韓非は一瞬だけ目を細めた。かつての同門、そして宿敵――李斯。
「貴様が、“選ばれた”ことは知っている。だからこそ、私はここに来たのだ」
冷ややかに告げた韓非の視線に、李斯は眉ひとつ動かさなかった。
「おまえは理を信じすぎる。人の本性を忘れている。理想は立派だ。だが、“現実”を見誤れば、それはただの毒だ」
その時、王綰がそっと広間の隅に姿を見せた。呂明に一礼したあと、低い声でつぶやく。
「赤白の札を廃したときから、韓非殿は敵を作りすぎた。……商いの道すらも“理”で断じる者に、商人の民はついていかぬ」
呂明はちらと王綰を見たが、何も言わなかった。
韓非の理は、あまりにも峻厳だった。民の慣習も、権威も、信義も、すべては「法」によって律されるべきだと彼は言った。
だが――
それを支えきれる者は、果たしてこの世にいるのか。
ふいに、管子が呟くように言った。
「……法の行きつく先に、誰もいなくなる日が来るぞ。おぬしがそれでも構わぬというなら、せめて……」
嬴政が静か、だがよく通る声で語り出す。
「法を作るのは法家かもしれん。だが、法を承認するのは王である。王がどのように国を統治するかによって、承認される法は異なろう。秦はこの後、六国を武力で平らげる。そういう法を定めようと思う。法が人を服すなら、韓非よ、お前が中華統一の尖兵となろう」
その先を言う前に、扉が静かに閉ざされた。
韓非は嬴政にひとつ、深く一礼をし、何も言わずにその場を去った。
彼の背に、管子がひとつだけ問いを投げる。
「韓非。おぬしが信じた“理”は、果たして、おぬし自身を救えるのか?」
返事はなかった。
その夜を最後に、韓非の姿を見た者はいなかった。
数日後、密かに伝わった報――
韓非、獄中にて自害。
理由は不明。
だが、あの場にいた者は皆、どこかで知っていた。
それが「法の果て」であり、「理の涯て」であったことを。




