表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第五章 落日余光編
84/142

第八十話 法の果て、理の涯て

 咸陽の夜は、重く、深い。


 嬴政の宮殿に集められたのは、わずか四人の男たちだった。


 呂明。韓非。管子。そして、嬴政。


 白壁の広間には、剣も、矛もなく、ただ言葉だけが交わされる。だが、その言葉は鋼鉄のごとき重みをもっていた。


「覇と理、その二つで秦を治める」


 嬴政の言葉が静かに響いたあと、しばし沈黙が支配した。


 やがて、管子が口を開く。


「理を掲げれば、人は服す。だが、それは“従わせる”ことでしかない。信がなければ、人は心からは動かぬ。……韓非殿、それでよいのか?」


 韓非は薄く笑った。


「信など、権力の飾りに過ぎぬ。信を託せぬ者に、国を委ねることはできぬ。ゆえに法は、人に先んじて立たねばならぬ」


 その言葉に、管子は首を振る。


「おぬしが“人を疑う法”を徹底すれば、いずれ人は“法を疑う”。おぬしの法には、温もりがない」


 呂明は黙って両者のやり取りを見ていたが、ふと口を開いた。


「……理が人を縛り、信が人を動かす。そのどちらも、使い方を誤れば、暴政にもなろう。大王は、その危うさをご承知のうえで、両方を求められたのだと、私は理解しています」


 嬴政は微かにうなずいたが、そこに別の声が割って入る。


「理を過ぎれば、粛清となる。信を過ぎれば、愚民化となる。どちらがより悪かと問われれば、私は……“生き残る方”を選ぶな」


 李斯が、柱の影から現れた。すでに彼も、広間に呼ばれていたらしい。


 韓非は一瞬だけ目を細めた。かつての同門、そして宿敵――李斯。


「貴様が、“選ばれた”ことは知っている。だからこそ、私はここに来たのだ」


 冷ややかに告げた韓非の視線に、李斯は眉ひとつ動かさなかった。


「おまえは理を信じすぎる。人の本性を忘れている。理想は立派だ。だが、“現実”を見誤れば、それはただの毒だ」


 その時、王綰がそっと広間の隅に姿を見せた。呂明に一礼したあと、低い声でつぶやく。


「赤白の札を廃したときから、韓非殿は敵を作りすぎた。……商いの道すらも“理”で断じる者に、商人の民はついていかぬ」


 呂明はちらと王綰を見たが、何も言わなかった。


 韓非の理は、あまりにも峻厳だった。民の慣習も、権威も、信義も、すべては「法」によって律されるべきだと彼は言った。


 だが――


 それを支えきれる者は、果たしてこの世にいるのか。


 ふいに、管子が呟くように言った。


「……法の行きつく先に、誰もいなくなる日が来るぞ。おぬしがそれでも構わぬというなら、せめて……」


嬴政が静か、だがよく通る声で語り出す。


「法を作るのは法家かもしれん。だが、法を承認するのは王である。王がどのように国を統治するかによって、承認される法は異なろう。秦はこの後、六国を武力で平らげる。そういう法を定めようと思う。法が人を服すなら、韓非よ、お前が中華統一の尖兵となろう」


 その先を言う前に、扉が静かに閉ざされた。


 韓非は嬴政にひとつ、深く一礼をし、何も言わずにその場を去った。


 彼の背に、管子がひとつだけ問いを投げる。


「韓非。おぬしが信じた“理”は、果たして、おぬし自身を救えるのか?」


 返事はなかった。


 その夜を最後に、韓非の姿を見た者はいなかった。


 数日後、密かに伝わった報――


 韓非、獄中にて自害。


 理由は不明。


 だが、あの場にいた者は皆、どこかで知っていた。


 それが「法の果て」であり、「理の涯て」であったことを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ