第七十九話 影の落ちるところ
咸陽の空に、薄曇りが垂れ込めていた。春の終わりを告げるその重たげな曇天は、どこか人の心を映し出しているようでもある。
韓非は、呂明、管子と共に政庁を出たばかりだった。嬴政との謁見を終えた三人の足取りは静かだったが、それぞれの胸に去来するものは異なる。
「……あの嬴政、王たる器に違いない」
そう呟いたのは管子――彼の声音は、どこか憂いを帯びていた。
「だが、器が大きければ大きいほど、その中に注ぐ思想は慎重に選ばねばならぬ」
韓非は無言のまま、それに頷いた。咸陽に来て以来、王の姿勢――あるいは呂明の意図――を見極めようと努めてきたが、なお掴みきれぬものがあった。
「法が理である以上、情や信を排する場面もある。だが、それで民は本当に従うのか?」
韓非の問いかけに、呂明は立ち止まり、答えた。
「信もまた計算の一部だ。儒家のような感情的支配を全否定はせぬが、それは“信じたくなる仕掛け”にすぎぬ。だが法には、“納得”が要る。“なぜこう裁かれたのか”がわかるからこそ、人は従うのだ」
「……して、民が納得せねば?」
「そのときこそ、法を見直す機会だ。盲目的に従わせるために法があるのではない。理が通るから、法は生きるのだ」
そのやりとりを、管子は面白げに見つめていた。
「お前たちが語る“理”や“信”が、果たして王にとって都合の良い道具になるか、あるいは真に国を動かす軸となるか……私には、まだ判断がつかぬ」
そのときだった。奥から足音が近づいてくる。
「失礼いたします。王綰様が、韓非様にお目通りを所望でございます」
冷ややかな声だった。
王綰――呂明の背後で秦の財政を司る男にして、法を単なる統治の道具としか見ていない現実主義者。
管子はふっと目を細めた。
「動くな……王綰は何かを企んでいる」
韓非がうなずき、呂明と管子に一礼して政庁の奥へと向かう。咸陽の廊下は、冷たい石の匂いがした。
王綰は一人で待っていた。
「韓非殿。あなたの“理”の語り口は立派なものでしたな。だが、あまり理を通そうとすれば、世の中の“利”を敵に回すことになる。……ご忠告までに」
にやりと笑うその顔には、もはや敬意のかけらもなかった。
韓非は立ち去ろうとしたが、王綰が最後に一言を投げかけた。
「ちなみに、李斯はあなたの旧友だそうですな。――ご再会をお楽しみに」
韓非の足が一瞬止まる。
李斯――秦に仕官したもう一人の法家。そして、韓非と同門にして、最も価値観を異にする男。
空が、ますます暗くなっていった。