第七十八話 理の先にあるもの
咸陽宮・西廂――。
冬の陽が石畳を淡く照らし、白い息が交わるたび、重ねられた言葉の温度が変わっていく。
中央に嬴政。右に呂明と韓非、そしてその背後に控える管子。左には李斯と王綰。六人の思考が静かに火花を散らす。
「その者は誰か?」
嬴政が眉をわずかに動かす。仮面をつけた男が静かに嬴政に頭を下げる。
呂明が言う。
「彼は今、名を伏せ“古き友”として私と行動を共にしている。元は秦を支えた者――その経験と思想が、王道と法を繋ぐ道筋を探る一助となる」
韓非子が続ける。
「かつて管仲は覇を支えたが、同時に礼と法の間に秩序を求めた。今ここに、再び“秩序”を求める者が集う。王よ――あなたが選ぶのは、“恐れられる覇”か、それとも“信じられる法”か」
嬴政の目が鋭く細まる。
「いずれも選ばねば、天下は治まらぬ。だが、“恐れられる法”ならば、それは暴に過ぎよう?」
李斯が進み出る。
「恐れこそが秩序の根だ。韓非、貴様は昔、韓にて“人の欲を信じぬ”と言ったな。それが今、法による平等を語るのか」
韓非子は泰然と応じた。
「私は今も人の欲を信じてはいない。だからこそ“欲に惑わぬ法”が必要なのだ。李斯よ――君は私の言を学びながら、なぜ“法を権力の剣”にしてしまった?」
言葉に棘があり、李斯の目が一瞬、剣呑な色を帯びる。
「貴様は語るばかりで、為すことを知らぬ。法は道具に過ぎぬ。使う者が強ければ、それでよい」
王綰が鼻で笑う。
「道具ならば、我ら商人の方が使い方を心得ておる。赤札白札――韓非殿、あれを廃したのはあんたか? 我らの札で秩序は保たれていたのだ」
呂明が静かに言う。
「君の札は、秩序ではなく、支配の道具だった。民は“納得して”従っていたのではない。“従うしか”なかったのだ」
嬴政が声を低くする。
「――ならば、何を以て人は従う?」
その問いに、韓非と呂明が同時に口を開く。
「“理”と“信”だ」
ふたりの声が重なる。だが、次の瞬間――。
「……それは理想だ」
管子が初めて口を開いた。
「“信”も“理”も、脆い。人は簡単に裏切る。“信”に酔い、“理”をねじ曲げる。だが――覇だけが、実を取る」
沈黙が落ちる。
管子は続けた。
「だから、私は覇を選んだ。だが、呂明。お前が語る“信”、そして韓非子が語る“理”を、秦王が受け入れるというのなら――その時、真に覇は完成するだろう」
嬴政が、ひとつ深く息を吐く。
「幼き頃、邯鄲で過ごした際には“信”も“理”もなかった。法は確かにあった。だが、守られなかった。『秦人であれば構わぬ』と。それらが一粒でもあれば私は……。故に我が道は、覇によって法を守らせなければならぬ。信と理が背を支えるならば、天下は安定するのかもしれぬ。だが、無くてもよい。私の傍にはそんなものはなかったのだから」
誰も反論しなかった。
韓非子の目が、かすかに細まり――それが、静かな納得を示していた。
その場には、すでに“始皇帝”の胎動があった。
そして、その先には誰も知らぬ、血の運命が待っていた。
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