第七十七話 法の影、信の灯
書庫の灯が揺れる。蝋燭の炎がひとつ、静かに燃え、沈黙を照らしていた。
韓非は、椅子に浅く腰をかけたまま、呂明をじっと見据えていた。対する呂明もまた、目を逸らさず、その視線を受け止めている。空気は張り詰めているが、言葉はすでに交わされた。今は、その余韻が支配していた。
「……愚かだな」
沈黙を破ったのは、韓非の冷ややかな一言だった。だが、そこに嘲笑はない。
「“信じる”ことで国が治ると? 民が正しく生きると?それは……幻想にすぎぬ」
呂明は眉をひそめた。
「幻想でも、灯を掲げることはできる。民の目が届かぬ闇を、照らすために」
韓非は目を細める。
「灯など、いずれ尽きる。民とは、闇を好むものだ。そこに秩序をもたらすには、光ではなく――影が要る」
呂明は立ち上がり、歩み寄る。蝋燭の灯が、彼の横顔を照らした。
「それでも、私は信を掲げる。民を信じるというより――民に、信じられる者であろうとするために」
韓非の眉が僅かに動いた。静かに立ち上がると、彼は呟いた。
「信じられる者、か……。それが“王”の条件だと、おまえは言う」
呂明は頷いた。
「そうだ。信なくば、民は王を疑い、国は崩れる。法があっても、使う者が信を失えば、法もまた力を失う」
沈黙。やがて、韓非は微かに息を吐いた。
「……否定は、しきれぬ。だが、それでも私は“理”を選ぶ。愚民に委ねる余地はない」
その声は、揺れていた。決意と、どこかに残る迷い――あるいは、未知の思想への畏れ。
その時、扉の影から、仮面の男が姿を現した。管子である。
無言のまま、二人の間に歩み寄ると、韓非の前で立ち止まり、囁くように言った。
「信を知り、理を語ったおまえに、最後に“覇”を見せよう。おまえの“法”が、それに耐えられるか――試してみよ」
韓非が目を見開いた。仮面の奥から漏れるその声は、低く、静かにして重い。
「名は、嬴政――。秦王なり」
蝋燭の炎が揺れた。書庫の空気が震えた気がした。韓非の瞳の奥で、理が熱を帯び始める。
「覇……」
彼は、呟く。
「力をもって国を治める者、か。ならば、その中に“理”はあるのか――確かめてみよう」
管子の口元がわずかに緩む。呂明は一歩、韓非に近づいた。
「行け、韓非。おまえの“理”が試される時が来た」
韓非は、ただ一度だけ頷き、静かに背を向けて歩き出した。彼の影が、書庫の奥へと伸びていく。
そして――。
信、理、そして覇。
三つの理が、やがて交わるその刻へ。物語は、静かに動き出していた。
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