第七十六話 理は、牙を持つ
ちょっと短いですが、ご容赦ください。
新鄭の城下、静まり返った書庫に、蝋燭の灯がひとつだけ揺れていた。
仮面の男――管子が指し示した先に現れたのは、青衣をまとった青年だった。年若く、しかしその目に宿る光は、凡庸のそれではない。目の前の呂明を、まるで品定めするかのように見据えている。
「君が……“赤い札”を撒いた商人か」
第一声。まるで刀のような鋭さを帯びていた。
呂明は眉ひとつ動かさず、青年を正面から見据えた。
「そして君が、“理を語るに値する者”か」
青年は目を細める。その奥に、わずかな笑みが浮かぶ。
「韓非と申す。韓の王族に連なる者だが……今は、ただの学者でいい」
管子は無言のまま、奥の陰に身を潜めた。舞台は既に整った。あとは、火花を交わすのみ。
呂明は懐から赤札の一枚を取り出し、机上に置く。
「これは、ただの布じゃない。“信”の象徴だ」
「信?」
韓非は首を傾げた。
「それが人を救うとでも?」
「救うかどうかは、受け取った者が決める。ただ……“信じてよい”という選択肢を、誰もが持てるようにしたいだけだ」
韓非の顔から表情が消える。
「愚民に選択など無意味だ。人は弱い。ゆえに、法が要る。感情ではなく理で制御せねば、秩序など築けぬ」
「その理が、民の声を踏みにじるなら?」
「踏みにじるのは、愚かな支配者だ。正しい法は、万人に等しく、冷徹であるべきだ」
言葉が交錯し、空気がぴんと張り詰める。
呂明は立ち上がると、ゆっくりと歩み寄り、韓非の目の前に立った。
「法を信じる君に聞きたい。では、“王”とは何だ?」
「民に法を敷き、秩序を守る者だ」
「違う」
呂明の声が、低く、しかし確かに響いた。
「王は、まず“信じられる者”でなくてはならない。強いだけでも、賢いだけでもない。人は、信じた者のために命を懸ける。法ではなく、信で動く瞬間がある。それが、王の道だ」
韓非は驚いたように目を見開いた。
沈黙。
長い間の静けさのあと、韓非はぽつりと呟いた。
「……話は、続けよう」
仮面の奥で、管子がふっと口角を上げた。
“理”と“信”の邂逅は、今、始まった。
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