第七十五話 理を語るに値する者
仮面の男――管子は、静かに夜を切るように言葉を紡いだ。
「君の言う“王道”は、美しい。……だが、美しさはしばしば、脆さと隣り合わせだ」
焚き火の火がパチリと音を立てる。仮面の下の眼差しは、炎よりも鋭く、そして冷たかった。
「それでも俺は、王道を選ぶ」
呂明の声音は、迷いなきものだった。
管子は、ふっと鼻で笑った。
「面白い。……ならば、いずれ“理”をもって語るに値する男と出会うことになるだろう」
「“理”をもって語るに、値する?」
「ああ。賢いだけではない。言葉を武器に、法を剣に、時代を変えようとしている若者だ。彼にお前の理想を語るがいい。もし彼を納得させられるならば――王道とやらにも、ほんの少し現実味が出るかもしれん」
「名を聞いても?」
管子は、少しだけ顔を傾けた。
「名など要らぬ。探す気があるなら、きっと辿り着く。……お前が王道を貫くというなら、な」
そう言って仮面の賢者は立ち上がる。
「管子蘊。いや、あなたは……」
呂明が言いかけた時、管子は背を向け、夜の闇へと足を進めていた。
「夜が明ける。民の目は、ますますお前に集まるだろう。せいぜい、見られるに足る道を歩くことだ」
ひとひらの赤い札が、彼の手から舞い落ち、風に流されて消えていった。
翌朝、市場には新たな動きがあった。
誰が言い始めたのかは分からない。ただ、子どもが赤い札を持って走っていた。老婆が水場で「選べるようになるかもしれない」と呟き、若者が茶屋で「これからは、借りずに済む手もある」と語った。
言葉はまだ頼りない。だが、それは確かに広がっていた。
それに反比例するように、呂明のもとへ顔を見せに来る官吏の数が減った。
代わりに、街の一角ではこう囁かれている。
「市場の小僧が、民を焚きつけている」
「まるで、革命ごっこでもしてる気分かね」
呂明はそれを静かに聞き流し、屋台に立っていた。彼の視線は、群衆の中にいる者たち一人ひとりに向けられている。
その頃、離れた書斎の一隅。墨の香の立ち込める静寂の中に、一人の青年が巻物を読んでいた。
眉目秀麗、瞳に鋭い光を宿したその男は、ふと手を止める。
「……赤い札、か。民に選ばせる、ということか」
声には、少しばかりの興味と、さらに多くの疑念が混じっていた。
その名は、まだこの街の誰も知らない。
だが彼の名が歴史に刻まれる日も、そう遠くはない。
──韓非。




