第七十四話 仮面の賢者、再び
日が沈み、新鄭の空が群青に染まりはじめたころ、赤い札がまかれた広場は熱の残滓を漂わせていた。
多くの人々は赤札を握りしめたまま、静かに帰路につき、語り部たちは荷を解きながら、それぞれの余韻に沈んでいる。
そんな中、呂明は郦食其や白玲たちと広場の端に腰を下ろし、余った札の束を整理していた。紙の山を前に、白玲がふと漏らす。
「……こんな紙きれが、ここまで人を動かすなんて」
「紙ではない。言葉が力を持ったのだ。あの語り部たちの話が、人の奥底に届いた」
郦食其の言葉に、阿紅は頷きつつも、どこか浮かない顔をしている。
「でも……それだけじゃない気がします。皆、心のどこかで待ってたんだと思う。“選びたかった”って」
呂明はその言葉に微かに目を細め、呟いた。
「ならば、これからが本番だ」
彼が立ち上がろうとしたそのとき、背後にひとつの影が忍び寄る。
涼やかな夜風に乗って、乾いた衣擦れの音が響く。
「美しい演出だった。まるで劇場を観ているようだったよ、呂明殿」
聞き慣れたようで、どこか異質な声。
振り返れば、月明かりを背に、男が一人立っていた。白地に墨色の装束、そして何より──その顔を覆う仮面。
呂明の視線が鋭くなる。
「……その仮面。あのとき、洛陽で会った“先生”か」
「覚えていたか。嬉しいね。あの夜、私塾の片隅で交わした言葉は、私の記憶にも深く刻まれている」
仮面の男──管子は、口元だけをほのかに笑わせて言った。
「君の“王道”は面白い。いや、正確に言えば──危ういほど、美しい理想だ。だが、それゆえに私は惹かれる」
仮面の奥の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「だからこそ、滅びゆくと知りながらも……目を離せん」
風が静かに葉を揺らす。
呂明は言葉を返さず、ただその視線の意味を測ろうとする。
呂明は仮面の奥にある瞳を見据えるように言葉を返した。
「あなたの言葉は、いつも“正しさ”を試してくる。……だが、それがただの玩具遊びでないことは分かっている。で、今日は何を見に来た?」
「君の札、君の言葉、君の賭け──すべてが本物かどうか、それを見届けに来た」
管子は懐から一枚の赤札を取り出し、指先で弄ぶように揺らす。
「この札の重みは、実に良い。だが、“民の理解”だけで世を変えられると、思わぬことだ。民衆は水であり、時に舟を覆す」
「それを承知の上で、なお進む。それが王道だ」
「ならば……君の王道を、もう少し見てみよう」
管子は、赤札を空へ放るように風に舞わせ、ゆっくりと呂明に近づく。
「君には、会うべき者がいる。“理”を語るに値する若き賢者だ。……彼なら、この札に込められた意味も、重さも、計り知れるだろう」
「……誰だ?」
「名前は言えない。だが、彼は韓にいる。……そして、遠からず君を必要とする」
そう言い残すと、仮面の男は踵を返し、闇へと姿を消す。
風が吹き抜け、赤い札が一枚、舞い戻って呂明の足元に落ちた。
それを拾い上げながら、呂明は小さく呟いた。
「“理”を語る賢者……」
その瞳の奥に、静かに火が灯る。
やがて、その炎は──韓という国の運命すらも変えてゆくことになる。
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